織田信長というと戦においては連戦連勝というイメージが強いと思います。しかし、それは上洛後の織田信長のイメージであり、その前の美濃攻略戦では連戦連敗していました。今回は連戦連敗しながら美濃を攻略した織田信長の奮戦ぶりを解説します。
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永禄4年(1561年)斎藤義龍急死
織田信長は、舅である斎藤道三を救援に向かった時以来、斎藤義龍には全く勝てていませんでした。
しかし、永禄4年(1561年)その斎藤義龍が病死、後継者は凡庸な人物として名高い斎藤龍興でした。信長はこれを美濃攻めの好機と見て、堅牢な稲葉山城を回避し西美濃方面から侵攻していきます。
ここで起きたのが森部の戦いで斎藤方は墨俣砦より長井甲斐守、日比野清実を出撃させました。織田軍は1500、斎藤軍は6000と圧倒的に兵力では斎藤軍に劣ります。
ところが、合戦当日の5月14日は雨、信長は天の与えた好機と見て斎藤軍に突撃。斎藤方は鶴翼陣で応戦し、信長も隊を3つに分け両軍が槍を打ち合って激闘を繰り返します。そして、信長は長井甲斐守、日比野清実を討ち取った上で170名余りの首を取り墨俣城を奪い取りました。
十四条合戦で敗北
永禄4年5月上旬、信長は木曽川、飛騨川の大河を越えて西美濃に侵攻し村々を焼き払い墨俣に砦を築いて駐留します。5月23日、斎藤龍興は井口から大軍を出し十四条という村に陣を構えました。
信長は直ちに墨俣から出撃し足軽同士の戦いが起きますが、朝の戦いで一族の織田広良が戦死したので一度退却します。
初戦で勝利を得た斎藤方は、北軽海まで進出し、西向きに陣を敷きます。一方の信長は、馬を飛ばして自軍のダメージを確認してから西軽海に移動し、こちらは東向きに陣を構えました。やがて足軽同士の戦いになり夜に入ります。
夜中に斎藤方の武将、真木村牛介が先頭になり奇襲を仕掛けてきますが、これを織田軍が追い払い、さらに佐々成政と池田恒興が敵将の稲葉又右衛門を討ち取りました。
夜中の戦いで敵味方入り乱れて大混乱でしたが、朝までには斎藤方の軍勢は引き上げています。戦いには勝った信長ですが稲葉山城を落とせなかったので、結果は敗北でした。
犬山城の織田信清が謀反!
信長が失敗を繰り返すと、尾張の織田方にも動揺が走り、犬山城の織田信清が反旗を翻しました。
ここが美濃につくと逆に、美濃勢に尾張領内を攻められる事になるので、信長は本拠地を清須から犬山城へと移転して対応しました。清須城は美濃から遠いので、それだけ本腰を入れ始めたのであり、信長が大苦戦している証拠でもありますね。
永禄5年(1563年)本拠地を小牧山に移した信長は、美濃の新加納城を攻撃しますが、ここも失敗してしまいます。
負けが込んできた信長ですが、さらに翌年の永禄6年に、叛いた織田信清を攻撃して犬山城を落としました。
何とか尾張本国の問題を信長は解決させたのです。
竹中半兵衛が稲葉山城を奪還する
永禄7年(1564年)斎藤家家臣の竹中重治と安藤守就が斎藤龍興に謀反、稲葉山城を奪取し、斎藤龍興は城を追放されます。
この時は、半年ばかりで龍興は稲葉山城に戻る事を許されますが、この頃を契機に斎藤氏の没落の兆候が顕著になり、家臣が造反していくようになりました。
苦戦が続く美濃攻略戦、そこで信長は再び攻略ポイントを中美濃に切り替え、永禄8年(1565年)信長は国境線の城、猿啄城を奪取します。
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