突然ですが「吉宗評判記 暴れん坊将軍」という番組をご存じでしょうか。1978年1月~1982年5月までTVで放送されていた時代劇です。江戸幕府第八代将軍である徳川吉宗が主人公。
将軍という身分を隠し、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助を名乗り、城下町で悪者退治をするという勧善懲悪型の一話完結型です。当時の筆者は勧善懲悪型の時代劇が大好きで、「水戸黄門」や「大岡越前」が大好きでした。
余談はそのくらいにして、その「吉宗評判記 暴れん坊将軍」では江戸城のシーンが出てくるのですが、そのロケ地は江戸城ではなく、姫路城だったんです。確かによく考えれば江戸城の大半は戦火で焼けてしまいましたし、今のようなCG技術もありませんので、代替場所があることは容易に想像出来るわけですが、一度も「あれはどこの城なんだろう?」なんて考えもしませんでした。
それだけ違和感がなかったと言えるのかもしれません。いろいろと調べてみると、どうやら江戸城が描かれる作品のほとんどは、ロケ地は「姫路城」だったようです。「姫路城」の愉しみ方のポイントはこのあたりにありそうですね。
この記事の目次
戦国時代の三英傑が関わった「姫路城」築城の必然性
「姫路城」がある播磨の国(現在の兵庫県)で、鎌倉時代末期から活躍していたのは「赤松氏」です。室町幕府を立ち上げた足利尊氏に味方していた「赤松氏」ですが、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は、新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で食い止めていました。この頃から西国と都との境界線だったんですね。
また、京都が一時南朝方に占拠された際には、幼い足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献しています。しかし戦国時代では活躍することできず、織田信長の支配をうけることになりました。
信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に中国地方平定を命じ、その拠点として播磨の国を与えます。この時の「姫路城」の城主は、あの名軍師「黒田官兵衛」こと黒田孝高だったのですが、豊臣秀吉に「姫路城」を譲渡しています。
そして、豊臣秀吉は黒田孝高の意見を参考にしながら、姫路城に3層の天守閣を造るなど、大規模な改築を行なったとされており、これが今の「姫路城」の原型となっています。関ヶ原の戦いが終わり、西国大名の抑えとして山陽道上の交通の要衝であった姫路の重要度はますます高まりました。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった「岐阜城の戦い」での功績が評価された池田輝政に播磨の国52万石を与え、姫路城の大改修にとりかかりました。8年にもわたる大改修だったようです。
西国大名をけん制するという意味でも、堅牢でかつ威圧するような城構えにする必要があったのでしょう。「姫路城」の築城には、戦国時代の三英傑「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えてきた池田輝政が行ったわけですから、、戦国時代の終焉の象徴といえるのではないでしょうか。
1613年に池田輝政が亡くなってしまった後は、譜代大名(数代にわたり徳川家に仕えた家)の本多氏、榊原氏、酒井氏、そして親藩(徳川家の直系の子孫にあたる家)の松平氏などが配属され、明治時代までの270年間、6氏によって統治されていました。このことから、徳川幕府の統治の象徴という意味合いが強い城であったことは間違いありません。
築城した池田家、そして池田輝政のことをもっと知ろう!!
江戸時代以前に建てられた天守閣が残っている全国12天守のひとつで、1993年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている「姫路城」を、今の姿に改修したのは池田輝政という武将です。
知名度はありませんが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康から手厚く扱われたという、とても稀有な存在です。輝政の父、恒興の母が信長の乳母(うば:母親の代わりに子育てをする人)であったため、ふたりは乳兄弟となります。このため、信長の恒興に対する信頼は厚く、恒興も信長の信頼に応えるべく、戦場で多くの武勲を挙げています。
そして池田恒興は、本能寺の変の前には摂津(現在の大阪府北部から兵庫県の南東部)を領地として与えられるほどの重臣として名を連ねていました。
本能寺の変の後の織田信長の後継者を決める「清須会議」では、羽柴秀吉を積極的に支援することとなり、これを機に、今度は羽柴秀吉の臣下となります。
2年後、秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った「小牧長久手の戦い」では秀吉方として参陣するのですが、そこで恒興と長男は共に戦死してしまい、その結果輝政が家督を継ぐこととなりました。
輝政はその後、秀吉配下で武勲を重ね、三河に15万石の領地を与えられました。徳川家康が関東へ領地替えとなり、もともとの領地には豊臣秀吉の重臣たちが配置されることとなりました。その一員となっていることから、秀吉からの信頼が厚かったことが伺えます。
またこの頃、秀吉の口添えで輝政は徳川家康の娘である督姫と再婚しています。督姫はもともと北条氏直に嫁いでいたのですが、秀吉により北条氏は滅亡。氏直は助命されたものの、すぐに病死してしまい、実家に戻っていました。
これを可愛そうに思った家康が秀吉に頼み込んで輝政と再婚したと言われています。でもこれを知ってしまうと、家康は輝政を自分の味方にしようと常日頃から考えていたんだとしか思えません。あの家康が何の計算もなく縁組をするわけがありませんから。
輝政は家康から狙われるほど、相当な評価をされていたのでしょう。ちなみに秀吉は側室の淀殿の妹である「お江」を輝政に嫁がせようと考えていたようですから、両陣営から狙われていた人物だったことがうかがえます。
もし「お江」と結婚していたら、関ヶ原の戦いでは西軍についていたのかもしれませんね。この縁組は池田家の未来、そして日本の歴史を大きく変えました。結果、このことで輝政と家康の関係が強く結ばれていくことになり、東軍に組することになります。
関ヶ原の戦いの後は西国大名の抑えの要として最重要地点のひとつである播州国を任され、姫路城を築城することとにあります。池田輝政没後、国替えされてしまったところをみると、「池田家」というよりは「輝政」個人が相当信頼を得ていたということを証明しています。全ての天下人に評価され、部下にしたいと思われていた池田輝政とはそういう漢(おとこ)だったようです。
「姫路城」観光はぜひ電車で行ってほしい
JR姫路駅の北側に山陽鉄道の山陽姫路駅があるのですが、その北西の角の道路向こうは「姫路城」の大手門にあたる飾磨門の跡です。大手門とはお城の正面玄関を意味します。つまりJR姫路駅のすぐそばまで、昔はお城の敷地だったという訳です。
そうなんです。ちょうど姫路駅あたりが当時の「姫路城」の表玄関になりますので、姫路駅に降り立って「姫路城」を観ていただくと、ちょうど当時の雰囲気を味わいながら城を拝むことができます。
駅から約1km先、大手前通りがまっすぐ伸びていますのでさえぎる建物も少なく、小高い丘の上にそびえたつ「姫路城」は荘厳であり、威圧的でもあります。これ、「姫路城」観光で絶対に外せないポイントです。くれぐれもおしゃべりに夢中で気が付いたら「姫路城」がすぐそばに、なんてことにはならないようにしてほしいです。
姫路城は何故あんなに威風堂々としていなければならなかったのか
淡路島と一番接近している明石海峡あたりの陸地は、すぐそばまで山が迫っており平地がほとんどありません。そのため、江戸時代までは陸路(山陽道)は整備されておらず、姫路から大阪までの交通はもっぱら航路でした。
都(京都)へは大阪を経由するルートではなく、姫路城からまっすぐ東に進み、やや北東方面に伸びている山あいの道(現在の国道372号線とほぼ同じ)を、北条~篠山~亀岡を経由する陸路が主要街道でした。
※なるほど、明智光秀の所領であった亀岡近辺が、対西国という意味で重要な場所であることを、今明確に理解することができました。
西からやってきた人は姫路城のあたりで航路をつかって大阪方面に向かうか、山の方にあがっていき京都方面を目指すのか、選んで進んでいく必要があったんですね。陸路、航路問わず、西からくる人々全てに徳川幕府の権威、そして財力を見せつける象徴としての役割を、「姫路城」は担っていたと考えられます。
特に海から姫路にやってきた人たちには、それはそれは遠くの方からも「姫路城」は見えたと思います。初めて目の当たりにした人たちに、どれほどの驚きを与えたのでしょう。想像するだけでなんだかドキドキしませんか。
【次のページに続きます】