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天草四郎とはどんな人?キリシタンのカリスマ島原の乱に散る

2020年8月31日


 

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天草四郎

 

天草四郎(あまくさしろう)は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆(いっき)軍の最高指導者とされています。

 

本名は益田四郎(ますだしろう)(いみな)時貞(ときさだ)と言い、最初の洗礼名はジェロニモでしたが、一時は表向き棄教(ききょう)をしていたせいで島原の乱の時にはフランシスコの洗礼名に変わっていたそうです。

 

16歳の若さで死んだとも言われる天草四郎ですが、彼は一体どうして島原の乱の指導者になったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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生没年不詳 天草諸島の大矢野島で誕生

戦国時代の武家屋敷b

 

天草四郎については、生年が不明で何歳で死んだか定かではありません。恐らく江戸初期にキリシタン大名小西行長(こにしゆきなが)の遺臣でキリシタンの益田好次(ますだよしつぐ)と、同じくキリシタンの母よねの間に嫡男として誕生したと考えられます。

 

出身地は、天草諸島の大矢野島(おおやのじま)と言われますが、肥後国宇土郡江部村(ひごのくにうとぐんえべむら)とも長崎出身とも言われ定かではありません。天草四郎の母の陳述によると、四郎は肥後国宇土郡で成長し、学問修行のために何度か長崎を訪れ、一揆の直前に父に伴われ天草に移ったとされています。四郎は長崎でキリシタンに入信したそうです。

 

どうして一揆の指導者になったのか?

麒麟を求める農民たち

 

天草四郎の生涯についてはほぼ不明ですが、生まれながらに人を()きつけるカリスマ性があり、経済的にも裕福であったため、学問と教養を身につけていたようです。

 

日本史上最大の一揆の総大将となった16歳の天草四郎

 

その事から、早くから神童という評判があり、過酷な年貢に苦しめられていた天草や島原のキリシタン達から救世主として崇められ一揆のシンボルとして祭り上げられたのではないかと考えられています。

 

ですので寂しい話ですが、実際の戦争の指導は、父の益田好次や大人達が行い、四郎は、指導部の方針を一般のキリシタンに伝える広報のような存在だったかも知れません。

 

はじめての戦国時代

 

島原の乱の背景

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

では、天草四郎が一揆軍を率いる事になった島原の乱の経緯について簡単に解説します。

 

島原の乱と言うのは、松倉勝家(まつくらかついえ)が領する島原藩の肥前島原半島(ひぜんしまばらはんとう)寺沢堅高(てらざわかたたか)が領有する唐津藩(からつはん)の飛び地、肥後天草諸島(ひごあまくさしょとう)の農民が合流して起こした反乱です。

 

有馬晴信

 

島原は元々、キリシタン大名、有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んでした。しかし、慶長19年(1614年)に有馬氏が領地替えで去り、大和五条から松倉重政が入った事で島原のキリシタンを苦難が襲います。

 

松倉重政は非常な見栄っ張りで、幕府の歓心を買い、より出世しようと飽くなき野心を持つ人物であったようで、江戸城改築の仕事を積極的に引き受け、4万3千石の小大名なのに10万石規模の立派な島原城を築城して、それらの費用を全て年貢として農民から徴収。

 

さらに検地を行って実際の倍の石高を弾き出して毎年過酷な年貢を納めさせました。

名古屋城

 

それだけでも、酷い話ですが、寛永2年(1625年)徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘された松倉は、それまでの緩やかな対策から一転して過酷な処置を取り、キリシタン及び、年貢を払えない農民に過酷な拷問を科しました。もう一方の、天草の寺沢堅高も似たような悪辣さで、富岡城を築いて代官や城代を送り過酷な搾取とキリシタン弾圧で領民を苦しめます。

疫病が蔓延している村と民人

 

過酷な取り立てに対し、島原の領民は武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場にあった旧有馬氏の家臣の下に組織化され、肥後天草でも、小西行長・加藤忠広(かとうただひろ)の改易により大量に発生していた浪人たちを中心に一揆が結ばれていました。

 

こうして、島原の乱の首謀者たちは湯島にて会談を持ち、キリシタン信徒の間でカリスマ的な人気を持っていた当時16歳と伝わる天草四郎を一揆軍の象徴として担ぎ決起する事を決めます。

 

島原の乱勃発

一向一揆(農民)

 

寛永(かんえい)14年10月25日(1637年12月11日)有馬村のキリシタンが中心になり一揆勢が代官所の強訴(ごうそ)に赴き代官、林兵左衛門(はやしへいざえもん)を殺害。ここに島原の乱が勃発します。

 

一揆は島原半島の雲仙地溝帯の南目(みなんめ)と呼ばれる地域の組織化に成功し、さらに北目(きため)と呼ばれる地域の組織化に取り組みますが北目は千々岩断層(ちぢわだんそう)を天然の要害にして南目に反抗したので、南目は北目の組織化を断念しました。

 

ただし、南目のすべての集落が一揆に参加したわけでもなく、北目から参加した農民もいます。島原藩は直ちに討伐軍を出し深江村で一揆軍と激突しますが、兵の疲労を考慮して島原城に戻ります。

 

一揆軍の勢いは盛んで、島原城に籠城した松倉藩の兵士を尻目に城下町を焼き払い、略奪などをして引き上げました。

三国志のモブ 反乱

 

なす術ない松倉藩は一揆に参加しなかった領民に武器を与えて一揆鎮圧を狙いますが、その武器を手にして一揆軍に加わる住民も多く一揆軍の勢力は増していき、島原半島の南西部へと拡大していきました。

 

一部は日見峠(ひみとうげ)を越えて、ポルトガル商館のある長崎に突入しようとする意見もありましたが、討伐軍が迫っている事から断念します。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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