天草四郎は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆軍の最高指導者とされています。
本名は益田四郎で諱を時貞と言い、最初の洗礼名はジェロニモでしたが、一時は表向き棄教をしていたせいで島原の乱の時にはフランシスコの洗礼名に変わっていたそうです。
16歳の若さで死んだとも言われる天草四郎ですが、彼は一体どうして島原の乱の指導者になったのでしょうか?
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生没年不詳 天草諸島の大矢野島で誕生
天草四郎については、生年が不明で何歳で死んだか定かではありません。恐らく江戸初期にキリシタン大名小西行長の遺臣でキリシタンの益田好次と、同じくキリシタンの母よねの間に嫡男として誕生したと考えられます。
出身地は、天草諸島の大矢野島と言われますが、肥後国宇土郡江部村とも長崎出身とも言われ定かではありません。天草四郎の母の陳述によると、四郎は肥後国宇土郡で成長し、学問修行のために何度か長崎を訪れ、一揆の直前に父に伴われ天草に移ったとされています。四郎は長崎でキリシタンに入信したそうです。
どうして一揆の指導者になったのか?
天草四郎の生涯についてはほぼ不明ですが、生まれながらに人を惹きつけるカリスマ性があり、経済的にも裕福であったため、学問と教養を身につけていたようです。
その事から、早くから神童という評判があり、過酷な年貢に苦しめられていた天草や島原のキリシタン達から救世主として崇められ一揆のシンボルとして祭り上げられたのではないかと考えられています。
ですので寂しい話ですが、実際の戦争の指導は、父の益田好次や大人達が行い、四郎は、指導部の方針を一般のキリシタンに伝える広報のような存在だったかも知れません。
島原の乱の背景
では、天草四郎が一揆軍を率いる事になった島原の乱の経緯について簡単に解説します。
島原の乱と言うのは、松倉勝家が領する島原藩の肥前島原半島と寺沢堅高が領有する唐津藩の飛び地、肥後天草諸島の農民が合流して起こした反乱です。
島原は元々、キリシタン大名、有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んでした。しかし、慶長19年(1614年)に有馬氏が領地替えで去り、大和五条から松倉重政が入った事で島原のキリシタンを苦難が襲います。
松倉重政は非常な見栄っ張りで、幕府の歓心を買い、より出世しようと飽くなき野心を持つ人物であったようで、江戸城改築の仕事を積極的に引き受け、4万3千石の小大名なのに10万石規模の立派な島原城を築城して、それらの費用を全て年貢として農民から徴収。
さらに検地を行って実際の倍の石高を弾き出して毎年過酷な年貢を納めさせました。
それだけでも、酷い話ですが、寛永2年(1625年)徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘された松倉は、それまでの緩やかな対策から一転して過酷な処置を取り、キリシタン及び、年貢を払えない農民に過酷な拷問を科しました。もう一方の、天草の寺沢堅高も似たような悪辣さで、富岡城を築いて代官や城代を送り過酷な搾取とキリシタン弾圧で領民を苦しめます。
過酷な取り立てに対し、島原の領民は武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場にあった旧有馬氏の家臣の下に組織化され、肥後天草でも、小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人たちを中心に一揆が結ばれていました。
こうして、島原の乱の首謀者たちは湯島にて会談を持ち、キリシタン信徒の間でカリスマ的な人気を持っていた当時16歳と伝わる天草四郎を一揆軍の象徴として担ぎ決起する事を決めます。
島原の乱勃発
寛永14年10月25日(1637年12月11日)有馬村のキリシタンが中心になり一揆勢が代官所の強訴に赴き代官、林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発します。
一揆は島原半島の雲仙地溝帯の南目と呼ばれる地域の組織化に成功し、さらに北目と呼ばれる地域の組織化に取り組みますが北目は千々岩断層を天然の要害にして南目に反抗したので、南目は北目の組織化を断念しました。
ただし、南目のすべての集落が一揆に参加したわけでもなく、北目から参加した農民もいます。島原藩は直ちに討伐軍を出し深江村で一揆軍と激突しますが、兵の疲労を考慮して島原城に戻ります。
一揆軍の勢いは盛んで、島原城に籠城した松倉藩の兵士を尻目に城下町を焼き払い、略奪などをして引き上げました。
なす術ない松倉藩は一揆に参加しなかった領民に武器を与えて一揆鎮圧を狙いますが、その武器を手にして一揆軍に加わる住民も多く一揆軍の勢力は増していき、島原半島の南西部へと拡大していきました。
一部は日見峠を越えて、ポルトガル商館のある長崎に突入しようとする意見もありましたが、討伐軍が迫っている事から断念します。
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