戦国時代の大合戦の一つ、小田原征伐、豊臣秀吉が大軍で小田原城を包囲し3カ月で合戦が終わったので、楽勝と思われがちですが、実際にはそうでもありませんでした。
秀吉は天下統一の総仕上げとして、20万もの大軍を集めましたが、動員された大名は日本全国から、手弁当で集まるのであり、小田原に向かうだけでも大変な費用が掛かりました。
しかも到着したら終わりではなく、そこから城を包囲しないといけないわけで、諸大名は兵糧や弾薬や薬、馬の飼料はどうすればいいか大いに困惑しました。それを解決したのが豊臣軍の圧倒的な兵站能力、ロジスティックだったのです。
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戦国オールスターを実現させた秀吉のアイデア
豊臣秀吉が動員をかけた戦国大名は東北、関東、東海、近畿、四国、九州までの50名以上のオールスターであり、毛利水軍まで含めると20万を超える大軍でした。これは日本史上空前絶後の規模と言ってよく、日本が再び20万を超える遠征軍を出すのは、300年後、1894年の日清戦争まで待たねばなりません。
しかし、数はよいとしても問題は、20万人の兵力をどうやって食べさせていくかです。戦国時代の合戦では、食糧は自分で用意するのが基本で、埋め合わせは恩賞でしていたのですが、関東近辺の大名なら兎も角、九州や東北の大名では、一体、どれだけの兵糧を持って行けば、小田原城が落ちるまで持つのか見当もつきませんでした。そこで秀吉は、戦国の常識を覆す画期的なアイデアを出してきます。
諸大名はそれぞれ、小田原まで到着できるだけの兵糧を持ってこれば宜しい、そこから先は豊臣で責任をもって兵糧を確保する。これにより、全国の大名は小田原に到達するまでの兵糧を持参すればよくなり、小田原攻めが実現するのです。
ロジスティックのポイント清水港と袋城
兵士は胃袋で歩くとは、ナポレオン・ボナパルトの格言ですが、合戦がない限り兵士とは博打を打つか、寝ているか、酒を飲んでいるか、飯を食っているかでした。そして、小田原に集結する軍勢20万人が消費する食糧はすさまじく、1日で米187.2tが消えてしまうのです。
この莫大な食糧をまかなう為、秀吉は、部下の長束正家に命じて、20万石という米を徴発させ、黄金1万両を参じて輸送用の馬1万頭を揃え、毛利輝元に命じて千隻の船を使い、駿河国清水港に20万石もの兵糧を陸揚げ、さらに長束正家とスタッフが、これを袋城という城址に運び込んで管理しました。
長束正家が、袋城にロジスティックの拠点を置いた事により、従軍大名は兵糧が不足すると袋城まで来て、市で兵糧と軍需物資を調達する事が可能になりました。
袋城に市を立てて兵糧を運用する
正家は、袋城に市を立てるだけではなく、全国から大商人を呼び寄せ、兵士が必要とする物資と米を売買して交換し、20万人が必要とする軍需物資を賄いました。なにしろ20万人の兵の兵糧米消費だけで1日187.2トンです。現在の米の1キロを500円と換算しても9375万円、ざっと1日で1億円が動く事になります。
もちろん兵士は米だけを食べるわけではないので、塩や味噌、酒、草鞋や笠、筵のような日常品や、タバコのような嗜好品まで付随してよく売れたでしょう。そもそも当時の関東に人口20万都市はありませんから、袋城の巨大な市は周辺の商人に一大ビジネスチャンスを運んできた事になります。
九州平定でノウハウを積んだ豊臣氏
実は、九州平定の頃にも、秀吉は、小西隆佐など4人の奉行に30万人分の兵糧、馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じています。しかし、九州平定は小田原攻めの3倍、9カ月程かかり戦費捻出に苦しんだ羽柴秀長は、兵糧米を高値で味方大名に売りつけようとし、秀吉に止められたというような逸話があります。
この時も、長束正家は兵糧奉行として、やはり兵站に携わっていました。兵糧をただ保持するのではなく、運用して利益をあげるという発想は、もしかして銭ゲバな羽柴秀長から学んだのかも知れません。
また、大名が兵糧を買う金がない時は、豊臣家は資金を貸し付け掛けで売りました。こうしておけば大名の弱みを握る事ができ後々利用できるからです。なんにしても、長束正家と清水港と袋城なしに秀吉の小田原征伐は不可能でした。
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