大地震、それは古来よりどんな大軍による征服も及ばない深刻なダメージと時代の転換という副産物をもたらしました。安土桃山時代の日本でも、天正地震、そして伏見地震と10年あまりの間に大きな地震が二度も発生し庶民を苦しめました。
しかし、この地震のお陰で窮地を逃れ天下を獲った男がいました。それが江戸260年の泰平を開いた戦国大名、徳川家康だったのです。
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小牧・長久手で終わらない秀吉の戦意
徳川家康と言えば、大変な戦上手で小牧・長久手の戦いでは寡兵で羽柴秀吉の大軍を破って講和し、さらに譲歩を引き出して赦免されたのは有名な話です。しかし、本当は小牧長久手の戦いで敗れた秀吉は、まだまだ戦意満々でした。
天正13年(1585年)11月13日、秀吉は徳川家康の重臣、石川数正を10万石を餌に引き抜きました。徳川陣営は、家康の右腕の出奔に激しく動揺したと参州実録御和談記にあります。
それで家康に軽いジャブを喰らわせた秀吉は、11月18日に徳川攻めの前線基地になる大垣城に兵糧蔵を築き土蔵にして5000俵余りの米俵を運び込みました。
そして、翌11月19日には秀吉は家康追討を正式に表明します。真田昌幸宛ての書状には、年内では日がないのでキリよく来年正月15日以前には出陣すると書かれています。羽柴秀吉は、小牧・長久手で1敗した程度で徳川家康追討を諦めるつもりなどなかったのです。
地震と長雨でガタガタだった家康の領国
この天正11年から天正12年にかけて家康の領国では、地震や大雨が続いて被害が出ていました。特に天正11年(1583年)5月から7月にかけては関東一円から東海一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、家康の領国も50年来の大水と松平家忠が日記にしるすような状態でした。
徳川家康は、この状態で小牧・長久手の戦いを続けざるを得ず、「龍門寺拠実記」によると、天正12年(1584年)に小牧・長久手で多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招き、残された老人や子供が自ら命を絶つ悲惨な光景が広がります。実は、石川数正の出奔は、この徳川家の弱体化を象徴する出来事だったのです。
秀吉は慎重な男ですから、再度、家康と事を構える上で、和睦がなった中国地方の毛利氏や宇喜多氏も戦陣に加えるのは確実であり、小牧・長久手に続き、さらに奇跡的な勝利を家康が手に出来るかといえば、、極めて難しい状況でした。
家康はすでに北条氏と縁組をし援軍の約束を得てはいましたが、本当に北条が援軍を寄せてくるかどうか、確証は持てないままです。
秀吉の使者と家康の交渉
天正13年11月28日、秀吉が開戦のカードを切って9日後、家康は岡崎城で秀吉の使者と激しく交渉していました。
家康が「わしは秀吉の家来ではない!どうして秀吉の指図で上洛せねばならぬ」と突き放すと、使者は「ならば、再び一戦するしかありませんな」と脅迫します。
しかし、秀吉の風下に入るか、独立した大名として秀吉と対等な関係が築けるかの瀬戸際ですから、家康は退かず強気に出ます。
「いかに秀吉でも10万の大軍は用意できまい。わしが、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の兵力を集めれば3、4万は集まるから、潔く一戦しようではないか!」
強気の家康ですが、同時に本音をチラ見させるのも忘れませんでした。武徳大成記によると、「わしは小牧・長久手で多くの羽柴方の武将を討ち、秀吉は怒っているだろう。上洛して殺されたのでは、たまらぬ・・」と家康は使者に伝えたそうです。
天正大地震が秀吉の野望を挫く
天正大地震が起きたのは、徳川家康が岡崎で秀吉の使者と交渉した11月28日の翌日、11月29日の深夜の事でした。家康はすでに腹を括り、前日から、援軍の令状を伊豆韮山城の北条氏規等に書き送るなど戦争準備に忙殺され、ようやく眠りについた時に揺れを感じます。
一方の秀吉は、宣教師ルイス・フロイスの書簡によると、自らが滅ぼした明智光秀の居城、近江坂本城に駐屯していましたが、大きな揺れを感じると、一切の政務を放り出して馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂まで逃げたそうです。
この逃げ込んだ大坂で秀吉は衝撃的な報告を受けます。兵糧蔵を置いていた大垣城が覆り(全壊し)その上に出火し、城下は一軒残らず全焼したのです。
さらに、家康討伐の先鋒を命じておいた山内一豊の近江長浜城も崩壊し、圧死者と液状化した地面に飲み込まれて行方不明者多数の上に火災で城下町が火の海になりました。
この上、織田信雄がいた伊勢長島城も大地震で天守閣以下が焼け散り、茶道具を持ち出すのが精一杯と言う大惨事になります。
戦争における負担は、その前線基地が担います。つまり、前線基地が大地震で崩壊した秀吉は、もう徳川討伐どころではありませんでした。逆に、家康がいた三河以東は震度4と、震度6を記録した近畿に比較して被害が軽微だったのです。土壇場で勝利の女神は家康に微笑もうとしていました。
羽柴秀吉ついに折れ、家康窮地を脱す
もうこうなっては秀吉が折れるより手はありません。復旧は1カ月やそこらではきかず、徳川征討に期限を区切りながら何も出来ないのでは、天下の物笑いになります。
秀吉「もはや、わしは五畿内、中国、北国まで支配下においた。家康とて、わしに本気で勝てるとは思ってもいまい。今、ごねておるのは上洛して生きて帰れる保証がない事を警戒しての事。わしの妹の朝日姫を家康の妻にやり、婿入りの挨拶に事寄せて上洛させよう。家康さえ上洛すれば、後は日本国中の大名がわしに頭を下げるはずじゃ」
こうして、秀吉は家康に妹を与えて縁戚関係を結び、家康は身の安全が保障されたので大坂城で、秀吉に臣下の令を取り戦争は回避されました。まさに天正地震が徳川家康の窮地を救ったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
天正地震が、まさに秀吉の徳川討伐直前に起きたお陰で徳川家康は窮地を脱する事が出来ました。
もし、秀吉の出兵が半年早ければ、家康の命運はどうなっていたやら、でも、このような目に見えない予測もできない自然災害でさえ味方にしてしまう強運があればこそ、家康は天下が獲れたのかも知れません。
参考:天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書) /新書 / 2014/11/21/磯田道史
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