以前にも触れましたが、赤壁の戦いで「東南の風を諸葛亮が祈祷によって吹かせた」というのは三国志演義の創作であり、実際に正史にそういった記述はありません。
では東南の風とはいったい何だったのか?どこからこの話が生まれたのか?
今回はある意味概念的な話を含めて、赤壁の戦いで吹いた「東南の風」を考えていきたいと思います。
この記事の目次
三国志演義での東南の風
まず初めに、三国志演義の東南の風をおさらいしてみましょう。
三国志演義では正史と違い、かなり諸葛亮の出番が多くなっています。火攻めをするということは周瑜も考えていたものの、問題は風の向きでした。この時期の風は北西であり、そのまま火を放っても呉軍が火に巻かれてしまうのです。
その周瑜の悩みを察した諸葛亮の祈祷によって東南の風を吹かせ、曹操達を火によって退けることとなったのでした。
東南の風の不思議
さてここで不思議なのが「諸葛亮に東南の風を吹かせる力があったのか?」ということ。おそらく、というかほぼそれはなかったでしょう。現実的に考えればそのような力を持っている人はいません。
そこで後世の創作ではここは「諸葛亮はこの時期に風が吹くことを知っていた」というのが通説となりました。他にはどじょうやなまずを飼っていて偏西風を知った、農民に聞いたなど、多くの説がありますが、これはあくまで三国志演義のお話ということで次に行きましょう。
風は・・・吹いた!
三国志演義と違い、正史三国志では諸葛亮は赤壁の戦いではほとんど出番がありません。ここは主に周瑜、そして黄蓋や程普といった呉の諸将の活躍の場面です。
では東南の風というものはなかったのか?というとそうでもありません。
呉書周瑜伝を見ると「黄蓋と周瑜は火攻めで戦ったよ。風が吹くまで待っていたよ」と記録されているので、東南の風かどうかは分かりませんが少なくとも風は吹いたのは確かなようです。
みんな知ってた「東南の風」
そこで思うのが「呉の諸将が東南の風を知らないのは不思議だな」ということです。火で戦うなら事前にどんな風が吹くのかどうか、周瑜ともあろうものがチェックしないはずはないと思います。また黄蓋を始めとした呉の諸将、特に呉で育った武将たちが季節風や偏西風を知らないはずがないでしょう。
むしろ知っていたからこそそれを利用して火で戦った、という方が納得がいくと思います。なので個人的な意見ですが呉の諸将こそ東南の風を知っていたのではないかと思うのです。
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