劉勲という人名は、史上7名ほどいてややこしい。特に後漢末から三国に3人もいるので字で判断するしかない。
正史三国志の公孫瓚伝が引く典略に、公孫瓚が献帝に対して、袁紹を弾劾した文書があるけど、ここに出てくる劉勲字は子璜は興味深い。
袁紹は最初、元虎牙都尉の劉勲と共に挙兵しましたが、劉勲は重ね重ね手柄を立て、
張揚を降伏させもしましたが、ところが袁紹はほんの些細な怒りにより劉勲に無実の罪を被せて殺害しました。
些細な怒りというのが、なんだか書いていないので気になる。
ただ、張揚の軍勢が袁紹に合流した事で袁紹軍は強大になり、これが韓馥に冀州を放棄させる大きな要因になったらしいから
その事で劉勲がデカい態度に出たんだろうか?
後に麹義も戦功を鼻に掛けたので袁紹は処分しているし、黒山賊を討伐した呂布も功績を鼻に掛けたという理由で暗殺しようとしたらしいから、その辺が袁家の御曹司の地雷かも知れない。
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