戦に勝った時は足軽にもご褒美はあったの?

2020年9月1日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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足軽a-モブ(兵士)

 

あまたの名将が1世紀もの間、生き残りのしのぎを削った戦国時代。

 

しかし、江戸時代前期の兵学者、大道寺友山(だいどうじゆうざん)が著わした落穂集(おちぼしゅう)によれば、戦場において千人が戦死した場合、武士の戦死は百人から百五十人、残りの八百五十人は農民や下人だったと記録されています。

 

そんな派手な合戦の地味な主役、足軽ですが合戦に勝った時には褒美なんてあったんでしょうか?

 

足軽はどうやって合戦に出されたのか?

真田丸 武田信玄

 

そもそも、普段は農業に従事している農民たちは、どうやって合戦に参加したのでしょう?

 

戦国時代の農民の動員については、2つの方法がありました。1つは、百姓大量動員体制で、もう1つは寄子(よりこ)寄親制(よりおやせい)を利用した地侍(じざむらい)の動員です。まず、最初に百姓大量動員体制を見て見ましょう。

 

名古屋城

 

戦国大名、小田原北条氏は天正15年(1587年)7月の晦日(みそか)に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めが近いと見て、「(さだめ)」という定型文を一斉に各郷村に配布している事が分かっています。

 

定は、現代で言う徴兵令(ちょうへいれい)で郷村の規模により徴兵される数に違いはあるものの、村ごとに、大体5人とか6人、年齢15歳から70歳までの男子が徴兵されました。

日本戦国時代の鎧(武士)

 

定では、徴兵されたものは、弓、鉄砲、(やり)のどれかを持参するよう義務付けられ、さらに腰に旗指物(はたさしもの)を差して、ひらひらとはためかせて、武士らしく見えるようにせよと細かい注文までついています。

 

このような細かい規定を見ると、北条氏が定の運用に慣れていて、農民もそれなりに合戦に熟達していたのかも知れません。

 

寄親・寄子制

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

もうひとつの大量動員の方法が寄親・寄子制(よりおや・よりこせい
)
です。

 

寄親とは、戦国大名の重臣クラスで国人とか国衆と呼ばれ戦国大名の領内で支城を支配していました。寄子は、寄親の支配下にある地侍や土豪の事で、彼らは半農半士で合戦がない時には農地を耕し、合戦があると寄子として寄親に従っていました。

 

寄子は規模の小さな自作農で、武器防具と言っても一領具足しかもっていませんが、名字(みょうじ)を持っていて「名字ノ百姓」と呼ばれ、普通の農民よりはランクが上でした。

 

そして注目すべきは寄子は、寄親を通じて戦国大名と御恩と奉公の関係で結びついていた事です。合戦で勝つと寄子には大名から褒美として領地や戦利品が与えられ、そうでなくても、年貢の免除などの特権がもらえました。

 

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

この寄子には軍役として、一定の人数を率いる事が決められていて、寄子が率いるのが被官(ひかん)と呼ばれる家人(いえのこ)、郎党で、彼らは小作料免除などの特権を認められて従軍します。

 

寄子は半農半士とはいえ、合戦が多い戦国時代には、地侍は軍役の働きばかりと言われ、農業は副業で、いつでも出陣できるように臨戦態勢を整える事が求められていました。

 

はじめての戦国時代

 

足軽の褒美は乱取り

噂話をする戦国時代の庶民(モブ)

 

寄子・寄親については合戦による褒美か年貢の免除の特典がありましたが、では、農民から徴兵された足軽の褒美はどうなのでしょうか?

 

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

足軽農民でも抜群の手柄があれば褒美があった事実は、北条氏の武州文書(ぶしゅうぶんしょ)や、武田氏の甲陽軍鑑(こうようぐんかん)から明らかになっています。しかし、あくまでも抜群の手柄があった場合であって、ほとんどの足軽農民は無我夢中で戦う間に合戦が終わるので、敵兵の首1つ取るチャンスさえ、あまりないのが現実でした。

 

つまり、農民に取り、褒美は縁遠いものだったのです。

 

では、足軽農民にとっては、合戦は嫌々参加させられる苦役だったのかと言えば、そうとも限りません。褒美がない代わりに足軽農民には乱取(らんど)りという戦後の略奪が許されていたからです。

 

戦国大名に黙認された乱取り

皆殺しをする伊達政宗

 

乱取りとは、略奪行為の事で、敵地の民家に押し入り、家財道具や蓄えられていた米などの食糧や、もちろん人もさらいます。本来、乱取りは支配した土地の住民の反感を買うので戦国大名は禁止しているのですが、乱取りは足軽農民への褒美の役割を果たしていたので完全に制止するのは困難でした。

 

また、いつでも乱取りが許されるのではなく、ある程度、合戦の勝利が確定した所で、総大将より乱取り自由の許可が出て、はじめて足軽の乱取りが開始されます。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

最近の研究では、桶狭間の戦いの時、織田方の鷲津砦(わしづとりで)丸根砦(まるねとりで)を落とした今川義元が、雑兵に乱取りを許した所、そこに信長の軍勢が殺到し、雑兵が散って少数の今川軍は支えきれずに、義元が首を討たれたという指摘もあるようです。

人身売買の市

軍議(日本史)モブa

 

戦場で一番手に入りやすい戦利品、それは人間でした。戦国時代はどこでも人手不足で人間を必要とし、敵国の領民を捕えて売り飛ばす為に、城内に人身売買の市が立つ程でした。

 

人間は怪我していなければ自分で歩きますし、食事と適当な休憩さえ与えれば、牛馬と違って世話をする必要はありません。言葉も通じますし、あらゆる作業に従事させられるので重宝だったのです。甲斐の妙法寺記という史料では、1人二貫文から十貫文で、現在価格では20万円から100万円の値打ちがついたそうです。

宋銭 お金と紙幣

 

足軽農民は、合戦で功名を立てようではなく、命を張った対価として乱取りで利益を得る事を第一に考える人々でした。まあ、彼らだって戦死者の8割から9割を占める消耗品扱いですから、略奪でも許されないとやってられなかったのでしょう。

 

逃亡すると味方に斬られる足軽

落ち武者

 

命懸けの合戦でも勝てば、それなりの戦利品を得られた農民足軽達ですが、負け戦になると一転して、落ち武者狩りに遭って狩られるという悲惨な境遇でした。それでも武士であれば、敗戦でも華々しく戦い討死したというのは子孫に対する遺産になりますが、無名な足軽では、ただの犬死です。

 

しかし、負け戦だからと言って、足軽は簡単に逃げられませんでした。越後上杉氏の軍記物「北越軍談(ほくえつぐんだん)」には、軍陣法令29条があり、その18条には、

キレる上杉謙信

 

「あるいは主、あるいは与頭(くみがしら)戦死の時には、その支配下の兵は一カ所を守り共に死すべし

もし、その場から逃れる者あれば、たちどころにこれを誅殺(ちゅうさつ)する」

 

このようにあり、足軽であろうと主、あるいは部隊長が死ねば、逃げずに共に死ねと命ずるものもあり、その場合ふんだり蹴ったりです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

このように足軽に褒美は無く、勝利後の乱取りだけが報酬でした。それも、敗戦しようものなら一瞬で、落ち武者狩りの対象になり逃げようにも軍律で退けば死刑とされている事もあり、割に合わないのが実情だったのです。

 

参考文献:歴史道 戦国合戦の作法と舞台裏

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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