応仁の乱後、京都の支配者は次々に変化していきました。観応の擾乱以後でも、覇権は大内氏、三好氏、細川氏、六角氏、織田氏と二転三転して、落ち着かない状態が続きました。
では、どうして、京都はこうも支配者がくるくる変わってしまうでしょうか?
それは、京が攻めやすく守りにくい都だったからです。
五街道が集中する千年の都
どうして京都は攻めやすく守りにくい都市になったのか?
それは、京都が誕生した時、大和朝廷は外に大きな敵を抱えていなかったからです。外敵がいないなら防御に関心を払うより利便性に力を入れる方が合理的でした。
京都は、南以外の三方を山に囲まれていて、一見すると外敵の侵入が難しそうですが、実際には、山の中を街道が通っていて、山陰道、東海道が東西を貫き、開けている南側には、大和街道、京街道、西国街道の三道が通過していました。
つまり、複数の地域から京都に攻め込まれた場合、京都を防衛する側は、兵力を裂いて複数の侵攻ルートに備えないといけません。それだけ守りにくくなるという事なのです。
京都の守りにくさに泣いた光秀
京都の守りにくさに泣いた戦国武将には有名な明智光秀がいます。
本能寺の変後、猛スピードで京都に向かい引き返してくる羽柴秀吉軍を明智光秀は迎え撃つ事になりますが、
①秀吉軍が西国街道を通るか?②京街道を通るか?③西国街道と京街道で軍を二手に分けてくるか、見通しが立てられませんでした。
そこで明智軍は、大山崎と八幡の2カ所に兵力を分散して迎え撃ちますが、秀吉は西国街道を驀進してきたので、八幡に配置した兵力は空振りになり、兵力を合流するのに手間取り、準備不足のまま山崎の合戦に臨む事になります。
もっと兵力が多ければ問題なかったんでしょうが、秀吉軍が最大40000人の兵力であったと推測されるのに対し、光秀は最大でも16000人と兵力が倍以上も違います。少ない兵力をさらに裂くわけですから、守りにくい京都は光秀に取ってマイナスに作用したと言えるでしょう。
将軍地蔵山・久米田の戦い
永禄5年(1562年)には、京都を支配してきた三好氏が、一時的とはいえ、近江六角氏と河内畠山氏の連合軍に攻め込まれて京都を追われた事がありました。この時には、畠山高政が京街道を進軍、六角義賢は近江から東海道を京都を目指して進み、将軍地蔵山城に入り上洛の機会を狙います。
戦いは、久米田の戦いで畠山高政が三好氏の総大将だった三好実休を討ち取る武勲を上げて勝敗が決し、松永久秀や三好義興は、山崎城まで後退しています。こちらの戦いでは、三好実休と重臣の松永久秀がそれぞれ、7000人の兵力で14000人。六角・畠山連合軍が20000人で、やはり攻める側が守備軍を上回っていました。
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