戦国ファンなら知らない人はいない天下人、豊臣秀吉。でも、その秀吉に出来の良い弟がいたというのは最近まで、あまり知られていませんでした。
その弟の名は豊臣秀長、苛烈な性格の秀吉をよく補佐し、秀吉の天下取りの影の功労者とも言われています。しかし、優等生イメージの羽柴秀長、実は貯蓄が趣味というドケチ男だったようなのです。
豊臣秀長とは?
豊臣秀長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で戦国大名です。豊臣秀吉の異母弟、あるいは同母弟で、豊臣政権下で内外の政務、および軍事面で才能を発揮。
四国征伐では病気の秀吉に代わって10万の大軍を指揮して長宗我部氏を苦しみながらも降伏させる事に成功。その功績により、大和・紀伊・和泉の3カ国に河内の一部を加えた110万石の大大名になり、官途も従二位権大納言に昇進したので世間からは大和大納言と尊称されます。
九州征伐では、20万を超える豊臣連合軍の別動隊を引き受け、征伐を成功に導くなど秀吉の天下統一に大きな貢献をしました。秀吉も、弟秀長を頼りにし補佐として重用、また秀長も秀吉に異を唱えて制御できる人物でした。また、秀吉に勘気を蒙った人々の陳情を受け入れて秀吉との仲を取りなす調停の名人でもあり、秀長に命を救われた大名は1人や2人ではありません。
しかし、そんな秀長も寿命には恵まれず、小田原征伐には病気の為に出陣できず、天正19年(1591年)兄に先立つ事7年で51歳でこの世を去るのでした。秀長死後の秀吉は、独断専行が顕著になり、朝鮮出兵の失敗、甥の羽柴秀次の処刑、千利休の切腹と政治の失策が増え豊臣政権は傾いていきます。
九州征伐で米を高値で大名に売りつける
天正14年(1586年)12月1日、秀吉は小西隆佐など4人の奉行に30万人分の兵糧、馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じ、各地より尼崎へ輸送させています。
これらの物資はそのまま従軍する大名に配られるのではなく、然るべき場所に兵站基地を置いて市を立て、地元の商人と物資の売買をしながら経済を円滑に回しつつ、兵糧が必要な大名に売却していました。
九州征伐に従軍する諸大名は、兵糧をここから買うしかないので、当然、少々兵糧が高くても買うしか選択肢がありません。そこに目をつけた羽柴秀長は大名に対し、割高の兵糧を売りつけて暴利を貪ろうとし、秀吉に叱られて止めています。
温厚な調停者らしからぬ、あるいは銭ゲバと呼ばれそうな秀長の一面です。ただ、秀長の為に弁護すると、この頃の秀吉軍は、紀伊征伐、四国征伐と大軍を動員した征伐の連続で蔵はすっからかんであり、財務を担当する秀長が切羽詰まってやったという可能性もあります。
(そりゃあ、藤吉郎兄さんはええがや 金ぴかの鎧来て 采配ふりゃあええでわしは、あにさんの兵隊さ 食わさなならん こりゃ、でらぁ えらいでの!)
などと、内心では愚痴っていたかも知れません。
熊野材木代金着服事件
九州征伐からほどない、天正16年(1588年)紀州雑賀で木材の管理をしていた吉川平介という男が、熊野木材2万本を伐採して大坂で売りさばいたものの、その代金の一部を着服したとして、秀吉に報告され大和西大寺で処刑、晒し首になりました。
ようするに公金横領なのですが、この吉川平介の上司は羽柴秀長でした。その為、秀吉は監督不行き届きとして、秀長も厳しく叱責し、翌年の正月の礼での拝謁を許さないという厳しい措置を取ります。
しかし、実務官僚として豊臣の財政に関与していた秀長が、本当に吉川平介の公金横領に全く気づかなかったのでしょうか?実は、熊野の材木は非常に品質が良く、寺社の建材として欠かせないものであり、江戸時代においては、江戸の木材需要の3割を賄う宝の山でした。江戸時代の紀州新宮藩は、この熊野木材と木炭を全国に販売して富を得ていた事も分っています。
これほど巨大な利権を、秀長が何も知らずに吉川平介に丸投げしていたとは考えにくく、本当は貯蓄の為に公金横領に一枚噛んでいたんじゃないかと勘繰りたくなります。
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