曹操個人の善悪観は合理的だ。
それは、自分の脅威になるか社会に大きな動揺を与える奴なら善悪問わず殺す。この逆なら殺さない。前者は楊脩や孔融等がいて、後者は禰衡、丁斐がいる。
そんな曹操が殺したいと考えていた人物に許劭(きょしょう)がいるらしい、もっとも出典は正史三国志ではなく、葛洪の抱朴子(ほうぼくし)なんだが…
以下は抱朴子外編 巻五十 自叙より
後漢末の弊風として、党派が分立するようになる。
許劭らは、口舌でもって恨みを買った。
人物についてああだこうだと論争し、親類までが敵同士になった。
そこで汝南の人士については、もはや定まった評価がなくなり、
許劭の月旦評(げったんひょう)だけが頼りという有様になった。
魏の武帝(曹操)もひどく許劭を憎み、その首を取りたいとまで思った。
その結果、許劭は他国へ逃亡したが、危うく一族皆殺しになる所だった。
葛洪(かつこう)には悪いけど、許劭は西暦195年に江南で死んでいる。豫洲汝南の人だけど、曹操に関係なく故郷が董卓と反董卓連合軍の争乱の巷になったから逃げたんだろう。
正史には、曹操も乱世の奸雄とか、治世の能臣とか評価されて喜んだとある。個人的に殺したいほど、憎むとは思えない。
だけど、曹操は個人の感情と賞罰が別になっている。親類同士でさえ憎しみ合わせ、己の好悪で人物評をすると批判された許劭について影響力の大きさを考え、いずれ始末しないといけないと考えていたかも知れない。