戦国時代は、そびえ立つ城が存在しないと始まりません。時代劇だって最初のアップは天守閣つきのお城の遠景である事が多いですよね?
でも、そんな城はどの程度の期間で完成したのでしょうか?
今回は、山城の築城期間について解説します。
この記事の目次
信濃上原城の築城期間
城がどの程度の期間で完成したのか?それについて記している記録はあまり多くないようです。当時は、各地に小規模な城が多く築城されていましたから、それをわざわざ記録に残そうとは思わなかったのかも知れません。
そんな中で、武田信玄が諏訪における拠点とした信濃上原城に関しては、築城期間についての記録が残っていました。
甲陽日記の記録によると
天文12年(1543年) | 出来事 |
5月25日 | 鍬立(地鎮祭) |
6月20日 | 普請 |
6月26日 | 城の御座と4つの城門と木戸が建てられる。 |
7月13日 | 長坂上原在城衆入城 |
天文13年4月15日 | 上原城完成 |
このように、信濃上原城は、鍬立から2カ月足らずで在城衆が入城し、住めるようになっている事が分かります。その後も工事は続き、全体では11ヶ月くらいで完成していますが、これは、城下町の建設まで含まれているという説もあります。とりあえず機能するようになるまでは、2カ月程度ですから、現在の一軒家よりもスピーディーに完成するみたいですね。
まるで一夜城?花の山城
戦国の城は、役割により規模も千差万別でしたが、敵の城の近くに建てられる付城になると、さらに工事も簡単で迅速に築城されました。
島津氏が阿蘇氏の肥後堅志田城を攻める際に築城した付城、肥後花山城は、天正11年(1583年)10月28日から築城が開始。わずか2日で警備兵が警護できるレベルになり、11月10日、12日間で完成した事が、上井覚兼日記に出てきます。
まるで、木下藤吉郎の墨俣一夜城ですが、花山城は山頂の曲輪と数段の帯曲輪程度で、明確な堀切もない簡単な城でした。花山城は、どちらかと言うと防塁のような意味合いが強そうですね。
築城の過程
一般的な築城は以下のような過程を経ておこなわれていたようです。
1) 城の位置を決める地選 |
2) 場所を確定する地取 |
3) 縄張を決める経始 |
4) 土木工事の普請 |
5) 建築工事の作事 |
しかし、戦国時代の文書に見られる用語は「普請」が圧倒的で、「鍬初」、「鍬立」という用語がしばしば見られる程度であるようです。城の位置を決める地選や地取は、その土地の実力者や農民と相談して決めたらしく、そこが聖地だったりすると、農民の反対が起きて築城を断念するケースもありました。
強行すれば出来ない事はなかったのですが、地元の農民の恨みを買っては、いざという時に足を引っ張られるので、強行しない事も多かったようです。
城の普請は知行役と公事の2種類
では、戦国の城は、誰が主体となり築城していたのでしょうか?
比較的に研究が進んでいる後北条氏の普請は、家臣である給人に知行高により賦課される知行役と、村・百姓に賦課される公事の2種類がありました。これは、武田、上杉、毛利など各地の戦国大名にもおおむね共通していたようです。
また、城は一度築城すればメンテナンスの問題がつきものになります。
例えば、後北条氏の城、玉縄城の塀のメンテナンスは、玉縄城領内の東郡、三浦郡、久良岐郡の3郡に課されていて、台風などで塀が壊れると、奉行人に催促される前に自発的に修復する事が義務付けられていました。
そして、この三郡のメンテナンス義務は玉縄城がある限り末代まで続くとされ、三郡は城と運命共同体とされました。城のメンテナンスは、かなりの負担で戦国時代が終わると農民たちは使わない城の廃棄を望む事が多かったようです。
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