戦国乱世というと、何カ月も風呂に入らないアドレナリン爆発の男たちが、毎日刹那的に過ごしているイメージですが、それは多分北斗の拳のみすぎです。
しかし、戦国乱世と清潔はあまり結びつきませんよね?
死ぬかも知れない戦いを前に、汚いとかクサイとか言ってられない気がします。でも、事実は小説より奇であり、実際の戦国の城はいつもお掃除がされていたようです。
この記事の目次
後北条氏は掃除好き
城内は野外に比較して狭く、そんな所に長期間大勢が詰めていると当然汚れます。そして、そんな汚物を放置しておくと疫病が流行する事を戦国時代の人々は経験で知っていました。
そこで、毎日のように城の掃除をするようになったのです。実際に関東の雄、後北条氏の居城、小田原城の小曲輪の城掟には、
「毎日、当曲輪の掃除、厳密に致すべし」とあり毎日の掃除が義務付けられていました。後北条氏の城郭関係史料には、この「掃除」というワードがかなり頻出するそうです。
すると、後北条氏の武士たちは、なかなかのキレイ好きだったのでしょうか?
受け渡しでは前よりもキレイに
また、城を守る在番衆が交代する時にも掃除をする決まりがあった事が、上野榛名峠城や権現山城などでは義務付けられ「きらびやかに」して受け渡すように書かれているそうです。
今風に言えば、「ぴっかぴかに磨いてから城を受け渡してね!」みたいな意味ですね。ヒゲモジャ傷だらけの戦国武士が交替前に、床や壁をキュッキュと磨いている様子を想像すると、とても微笑ましいです。
島津では夏の草刈りを義務付け
島津氏の支配する宮崎城では、夏場に曲輪の草刈りをやっていた事が、上井覚兼日記から分かるそうで、これもなかなか面倒くさそうです。でも、警備上も草がぼうぼうに伸びてしまえば、そこに忍びが隠れてしまう事もあり得ますし、飛んできた火矢で草が燃えて、そこから建物に飛び火する可能性もあります。それを考えると、草刈りは必要不可欠だったんでしょうね。
汚物を捨てる掟
動物は例外なくウンチ製造機ですから、大勢の人間が一カ所で生活すると、すぐに排泄物の問題が出てきます。人間はもちろんですが、城内の曲輪には、馬や牛、犬のような家畜もいたので、それらの糞尿も城内の汚染に拍車を掛けました。
戦国時代のトイレは、大きな石を左右に並べてその間に穴を掘って用を足す和式トイレのようですが、この城内の排泄物の処理方法を記している城掟はとても少なく戦国の排泄物処理は詳しい事が分っていませんでした。当時の人には当たり前すぎて、わざわざ書く必要もなかったのでしょうね。
そんな中、奇跡的に後北条氏の浜居場城の城掟には、排泄物の処理法が書き残されていて、残されていました。
それによると、
「糞尿は毎日捨てる事、捨てる場所は、城から遠矢を放って矢が落ちた場所よりも遠くに捨てるように、矢より近くに捨てない事」
このように書いてあり、城からかなり遠くまで運んで捨てていた事が分かります。
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