この記事の目次
曹操の家族を預かる
曹操は父曹嵩が陶謙(とうけん)に殺されると、激怒。陶謙に復讐するべく彼の領地である徐州へ侵攻を開始します。曹操は徐州へ行く前に家族の元を訪れ、「もし、俺がかえって来なかったら、張邈を頼れ」と伝えた後、徐州へ向かいます。その後曹操が帰ってくると、張邈は彼を迎え共に涙を流すほど親密な間柄でした。
将来を考え、疑心暗鬼に陥る
張邈は曹操と非常に親密な関係性を気付きますが、彼の心境に変化が起きます。当時袁紹は河北の勇として大勢力ですが、曹操は兗州のみを有する小さい群雄です。袁紹のいう事にいずれ逆らえなくなり、曹操は自分を殺すのではないかと疑心を抱くようになります。
張邈を上手く煽った謀略家・陳宮
陳宮(ちんきゅう)は曹操の謀臣として、様々な活躍を見せておりましたが、曹操に従っていることに対して嫌気が差し、彼に対して謀反を起こそうと考えます。そのため、張邈の弟張超(ちょうちょう)や兗州に散らばる各地の城主を説き伏せます。陳宮の言葉を聞いた各地の城主は、謀反の計画に加担。陳宮はこうして謀反の計画は着実に整え、最後の仕上げである張邈を説得するため彼の居城へ赴きます。陳宮は張邈に会うと「あなた様は四方から攻撃を受ける地に本拠を構えており、ただ兵を挙げるだけで、十分歴史に名を残す英雄となるのに、なぜお立ちにならないのですか。今曹孟徳は兗州をがら空きにして徐州を攻撃しています。呂布を兗州に向かい入れ、共に挙兵すれば、兗州は簡単に手に入れる事が出来る、今が最大のチャンスですぞ」と彼を煽ります。張邈は陳宮の説得に頷き、親友曹操を裏切り反乱を起こします。
曹操との戦い
張邈は呂布を自らの居城である濮陽に向かい入れます。こうして張邈は兗州で親友曹操を裏切り、反乱を起こします。張邈が挙兵すると陳宮が事前に説得していた兗州の諸城が味方に付きます。兗州には70程の城がありましたが、そのうち67の城が反乱軍である張邈の味方に付きます。その後曹操の味方に付いた三城を陥落させるため、侵攻を開始。しかし徐州から引き返してきた曹操軍に敗北し、濮陽へ引き返します。濮陽へ引き返した張邈らは、曹操軍に対して城に籠り戦います。曹操と戦う事百余日、ついに曹操軍の撃退に成功します。
親友を裏切った末路
曹操は濮陽攻防戦の翌年、兗州の諸城を陥落させて行きます。呂布(りょふ)は曹操を倒す為、曹操軍が駐屯する鉅野(きょや)へ出陣。鉅野の地で激しい攻防戦を繰り広げる両軍ですが、曹操軍の鉄壁を崩せず、呂布軍は敗北してしまいます。呂布は曹操に敗れると、徐州の劉備を頼って逃亡します。張邈は呂布が破れた事を知ると、家族を弟に預け、徐州へ向かいます。しかし、徐州へ彼は辿り着く事はできませんでした。彼は徐州へたどり着く前に、部下に殺害されてしまい、あっけない最後を迎える事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
張邈は曹操を裏切った後、悲惨な末路を迎える事になります。彼の家族は全員処刑され、自らも部下に裏切られて亡くなってしまいます。彼は陳宮の誘いに乗ってしまった為、このような末路を辿る事になってしまいます。しかし曹操は親友張邈を本当に殺す可能性はあったのでしょうか。彼は困っている人物を見捨てる様な人ではないと思います。一度は敵対した事のある劉備も曹操に匿ってもらっています。そのためいくら大勢力である袁紹からの要請であったとしても、曹操は張邈を見捨てる様な人物では無いように思えます。