『三国志』は“正史”と呼ばれる歴史書です。
“正史”、という言葉を見て、皆さんはどう思われるでしょうか?
正しい歴史? ……実はちょっと違うんです。
『三国志』を読むときに、心に留めておきたい、“正史”についての話です。
国家事業として編さんされる“正史”とは。
前述の通り、“正史”とは“正しい歴史書”の意味ではありません。
“正史”とは、東アジア周辺諸国において、主に国家が事業として編さんを行った王朝の歴史を記した文献を意味します。
正史は歴史上価値のある資料であることには違いありませんが、そこに書かれている事柄は決して事実であるとは限りません。
これは正史が多くの場合、王朝の事業のひとつとして制作されてきたことが原因です。
どんな王朝であっても、その歴史において隠しておきたいような事実は多々あるものです。
歴史書に書かれる事柄は、なるべくキレイ事だけにしておきたい、と思うのは当然のことと言えます。
まして、その歴史書を王朝自らが国家事業として編さんを進めるとあれば、当然、その内容は王朝によって思い通りになることは明らかです。
王朝にとってできるだけ都合の良い内容を前面に押し出し、都合の悪い事実は採用しない。
そうなるのはある意味、至極当然のことと言えるでしょう。
国家事業として正史が作られるようになったのはいつからなの?
国家事業として正史が作られるようになったのは唐の時代からです。
歴史書を国家事業として編さんすることが確立されたのは、唐の時代であったとされます。
なぜ、この時代に歴史書を国家が編さんするようになったのか。
それについては唐以前の歴史にヒントがあります。
唐の時代から、随をはさんで時代をさかのぼると、南北朝時代と呼ばれる時代に当たります。
この南北朝時代は統一王朝が存在しない時代ですが、その勢力分布は大きく華南と河北に分けられることから、南北朝時代と呼ばれています。
華南にあった宋という王朝は東晋から禅譲を受けて成立しています。
この東晋は司馬懿の孫にあたる司馬炎が、曹氏の魏から禅譲を受けて成立した晋(東晋と区別するために西晋とも呼ばれます)の流れを組んでおり、王朝としての正統性を持っていると言えます。
しかし唐を興した李淵は宋ではなく、南北朝時代に華北にあった北魏や北周の貴族の血を引く人物でした。
そのため唐王朝は、華南を王朝の正統と見る風潮に対して自らの正統性を示すために、国家事業として歴史書を編さんしたのだと考えられています。
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清の時代に定められた『二十四史』
18世紀半ば、清王朝の第六代皇帝である乾隆帝によって、歴代の王朝で編さんされた二十四の歴史書が正史として定められました。
これを『二十四史』と呼びます。
『二十四史』の最も古いものは、前漢の時代に司馬遷によって書かれた『太史公書』(たいしこうしょ)です。
後世、『史記』と呼ばれるようになった有名な歴史書で、日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回も採用されています。
晋の時代に陳寿が編さんした『三国志』は、二十四史中、四番目に古い正史です。
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