三国志の時代の人々は、外出時には、必ず冠を被って歩いていました。
お役人ばかりではなく、一般人も巾と呼ばれる布製の冠を常用いています。
これは、中々伝統のある習慣で紀元前11世紀の周の時代には、
制度化されていたといいます。
では、当時の人々が被っていた冠には、どんな種類があったのでしょうか?
ちょっと勉強してみましょう。
・冕(べん)
皇帝から卿大夫以上の人々が被っていました。
あの四角い冠に細長い板が載って硝子や
宝石がスダレのように垂れ下がっているアレです。
重大な儀式がある時にのみ、これを被っていたようです。
・弁(べん)
皇帝から、士と呼ばれた下級役人までが被りました。
鹿の皮などで造られた帽子状のもので、
身分により宝石などを縦に並べて飾った豪華なものもありました。
こちらは、一般の儀式で被られたようです。
・冠(かん)
金属製の冠で、行事がない一般の時に被っていました。
こちらも士が被っていたので庶民と士大夫を区別する
重要なステイタスシンボルでした。
余談ですが、漢の高祖劉邦(りゅうほう)は、
幼馴染の䔥何(しょうか)の口利きで、
沛県の亭長という現在の区長レベルの仕事に就きました。
劉邦は、「いよいよ、俺も士大夫になった」と威張りますが
お金がないので金属の冠を造る事が出来ません。
そこで、自分で竹を加工して冠を造って被っていました。
しかし、周囲は皆、劉邦の竹の冠を見て大笑いをします。
気分を害した劉邦は思いました。
(俺が天下を取ったら、皆が竹の冠を羨むようにしてやる)
後に劉邦は天下を取った時に、三公以下には竹の冠を被る事を
厳禁にしました。
これは劉氏冠と呼ばれ、士大夫が皆羨む冠になったのです。
・巾(きん)
巾は、一般庶民が被っていたもので、
布製のハチマキのようなものだったようです。
ただ、そんな庶民も行事がある時には冠を被りました。
何で被りたがるの?
漢民族は、儒教の影響で身体に刃物を入れるのを
親からもらった肉体に傷をつける行為と嫌いました。
そこで、髪さえ切らず、頭髪は頭のてっぺんで結いあげて
布で包んでから、そこに簪を刺し、
その上から、巾やら、冠やら、弁やらを被っていたのです。
良くできたもので、弁や、冠には、簪を通す穴が空いていて、
ここから、簪を刺す事で、顎紐を用いなくても冠を固定できたようです。
また、冠を被らずに外を歩く事は、
裸で人前を通る程に恥ずかしい事と考えられていて、
正史三国志の「魏略」には、
焦先(しょうせん)という賢者がいて草を編んでズボンにしていたが、
冠を被っていなかったので、道で婦人に会うと、こそこそ隠れて、
頭を抑えて婦人が通り過ぎるのを待ったそうです。
記述を読むと、焦先は奇抜な服を着た奇人のようですが、
それでも冠を被っていない事が恥ずかしく、こそこそと
逃げるように通りを歩いていたのですね。
冠を被る習慣がなくなったのはいつ頃なの?
中国の冠文化は、17世紀前半の明の滅亡までは存続しますが、
満洲族の清朝が建国すると、髷を結わず、辮髪の満洲族の習俗が
一般化して、冠を被る習慣は消えていきます。
満洲族は、陣笠のような被りモノに羽や宝石を散りばめた
ものを正装にしたので、冠は要らなかったのです。
関連記事:壮絶、血を吐きまくる三国志武将ランキング
関連記事:三国時代のお酒は発泡酒レベルだった?
関連記事:『三国志』人気を数字から考えてみる
関連記事:日本人にとっての『三国志』の原点……吉川英治『三国志』
この記事を書いた人:kawauso
HN:
kawauso
自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、
好きな歴史人物:
西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc
何か一言:
歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。