三国志演義には、様々な異民族が登場します、これらの異民族は、農耕民の漢族と大きく違っていて日頃から馬に乗り狩猟を行います。なので戦闘力に優れており、鉄砲などの飛び道具の発達していないこの時代には、ほとんど、サイヤ人のような驚異的な存在でした。
はじさんでは、三国志でスポットを当てられない彼等異民族に注目して、記事を書いていこうと思います。kawausoは、そんな異民族の中でも漢民族を震撼させた北方の鮮卑族について説明しようと思います。
この記事の目次
鮮卑族と烏桓族の起源は?
キングダムでもお馴染み、春秋戦国から前漢の時代にかけて、漢民族の脅威の象徴だった匈奴(きょうど)、その匈奴の英雄として知られる冒頓単于(ぼくとつぜんう)が遊牧民の東胡を滅亡させます。
滅亡した東胡の一部が、烏丸山に逃れて烏桓族になり、鮮卑山に逃れた一族が鮮卑族になったと言われています。
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弱小だった鮮卑族に英雄 檀石槐(たんせきかい)が産まれる
鮮卑族は、当初は勢力が弱く、匈奴の支配下におかれた存在でした。しかし、匈奴の英雄、冒頓単于が死去して後継者争いから、匈奴が南北に分かれると、次第に勢力を強めてゆきます。
後漢の桓帝の(146~167)時代、鮮卑族の投鹿侯(とうろくこう)の子として檀石槐が産まれました。ところが、檀石槐が産まれる前の3年間、父である投鹿候は、南匈奴に従軍して、家にはいませんでした。
「この子はわしの子ではない、お前、他の男と密通しておったな」投鹿候は怒り、妻と離婚しようとします。疑われた投鹿候の妻は、このように弁明します。
「この子は私が道を歩いている時に口の中に雹が飛び込み懐妊したのです。
檀石槐はきっと天の授けた子、鮮卑族を率いる英雄になります」
しかし、投鹿候は、妻の言い分を信用せず(まあ、そうだろうね)離婚したので、檀石槐は母の部族に引き取られていきました。
檀石槐はどうやって英雄になったの?
檀石槐は、母の予言通り青年に成長する頃には、非凡な統率力と戦闘力を持つリーダーに育っていきます。そして、母の部族を襲い、羊や馬を奪った他部族に対して、たった一騎で切りこんで、羊や馬を取りかえしました。この噂で檀石槐は、周辺の部族から讃えられ大人(たいじん)という部族のリーダーに選ばれます。
檀石槐の鮮卑、後漢に匹敵する程の領土を持つ
大人になってからの檀石槐の活躍は目覚ましいものでした。鮮卑族の兵馬の勢いは盛んで、南方は漢の国境地帯で頻繁に略奪を働き北方では丁令(ていれい:テュルク系)の南下を阻止して、東方では夫余(ふよ)を撃退させ、さらに西方では烏孫(現キルギス)に攻撃をかけて破りました。
こうして鮮卑族は、かつての匈奴の版図を、そのまま継承。東西は1万2000余里、南北は7000余里に渡る広大な地域を完全に手中に収めてしまいます。檀石槐は、この広大な領地を3つに分けて分割統治しました。勢いが衰えた匈奴に代わり、鮮卑が大帝国を築いたのです。
後漢は鮮卑を恐れ懐柔しようとするが・・
北方に鮮卑の帝国が出来た事を知った後漢王朝は穏やかではありません。早速、使匈奴中郎将の張奐(ちょうかん)を派遣して討伐しますが、思わしい戦果を挙げる事が出来ませんでした。
そこで、後漢王朝は、今度は檀石槐に王の印授を与えて懐柔しようとします。ところが、檀石槐は、「これは後漢が私を恐れているのだ」と増長し印授を拒否して、さらに略奪を激しくするように命令を出します。後漢王朝の対応は全く裏目に出てしまったのです。
後漢、再び討伐軍を派遣するも・・
霊帝の時代に入っても、鮮卑の略奪は止まりませんでした。特に幽州と幷州の略奪は、毎年のように起こり民の苦難は大変なものです。我慢できなくなった後漢王朝は、破鮮卑中郎将の田晏(でんあん)と使匈奴中郎将の臧旻(そうびん)を派遣しつつ、鮮卑と対立する南匈奴の単于、屠特若尸逐就(ととくじゃくしちくしゅう)を加えて、1000キロメートルを踏破する大遠征を行いますが、檀石槐は、これを自ら迎え撃って散々に撃破します。
漢と匈奴の連合軍の中で帰還できたのは10人に1人という大敗北でした。
檀石槐死去、鮮卑は弱体化する・・
後漢に匹敵する大帝国を築いた檀石槐ですが寿命には恵まれず45歳で死去します。その後は、息子の和連(われん)が鮮卑を率いますが、この和連は父の能力の100分の1もない駄目駄目君主でした。
しかも、貪欲で淫乱、不公正な裁きをしたので、たちまち部下の半分が、和連の命令を聞かなくなります。おまけにこの和連、父の真似をして、涼州の北地郡を略奪しますが、たまたま、この土地に弩に巧みな人間がいて、和連を狙撃して射殺します。偉大な父にはまるで及ばない呆気ない最期でした。
鮮卑族も、分裂し三国時代に入って行く
以後の鮮卑は、和連の息子の騫曼(けんまん)が即位しますが、まだ幼いという理由で和連の兄の子の魁頭(かいとう)が後見に立ちます。ですが、騫曼が成長すると、この魁頭と激しく争うようになり、部族は鮮卑の支配から次々に分離していきます。
こうして檀石槐の立てた、鮮卑の大帝国は瓦解してしまうのです。魁頭の死後には、その弟の歩度根(ふとこん)が支配者になりますが、歩度根の次兄の扶羅韓(ふらかん)が勢力を得て分離し、さらに、軻比能(かびのう)という新興勢力が台頭してきます。
中国が、三国時代に入った頃、鮮卑も三国時代に入り、漢民族の歴史に関わっていく事になるのです。
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