『三国志』を読むと、やれ手紙だとか指令だとか、
当たり前ように情報が行き交っています。
ついスルーしてしまいがちですが、よく考えると交通機関も通信手段も今ほど発達していなかった当時、人々が一体どうやって情報交換をしていたのか、ちょっと謎ですよね。
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この記事の目次
ネットも電話もない時代の音信方法・伝書
ネットも電話もメールもない時代ですから、主な音信方法といえば当然、伝書。
つまり郵便です。
郵便システムは早い段階から構築されていた
中国ではかなり早くから道路の建設事業が進められましたので、実はそれにあわせて郵便システムもできあがっていました。
統治者としては、自分の縄張りの隅々に命令を行き渡らせ、またどこで何が起きているか逐一知る必要がありますよね。
ということで、街道に一定間隔で、アンテナとなる拠点を設置し、通信ネットワークをつくりました。
この拠点、漢代以降は「駅」や「郵」などと呼びますが、機能としては宿泊所つきのサービスエリアに近く、配達員たちが途中で休んだり、
食料を補給したり、時には馬や運び手をチェンジして、効率よく文書や命令を伝達できるようにしたのです。
なお、有事には早馬で最寄りの烽火台(見張り台)に駆け込み、次の烽火台に狼煙でサインを送って、瞬時に先端まで意思を伝える方法もありました。
「駅」を郵便局とすると、烽火台はさしずめ電波塔でしょうか。
配達手段が早い順番
配達手段は速い順に
①騎馬
②馬車
③徒歩・飛脚
の三つあります。
①の配達員は紅白の郵便袋を持ち(『漢書』丙吉伝)、
「駅」のスタッフは赤い帽子に赤いアームカバーが制服でした(『後漢書』輿服志)。
また配達速度には一日のノルマや期日指定がありました。
漢代の例だと、①なら最速で馬を3回変えて一日千里(約500km。『漢旧儀』)、③の場合は一日200里(約100km。張家山漢簡「行書律」)となっています。
②ははっきりとした記述がありませんが、半日足らずで200里は進めたようです
(『漢書』王吉伝)。ちなみに東京-大阪が大体500km、東京-熱海で大体100kmです。
期限に遅れれば厳罰だし、配達中は盗賊や獣に襲われる危険があるしで、命がけの仕事だったことでしょう。
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ローマでも似た郵便配達システムの存在が記録されている
余談ですが、大秦(ローマ)でも似た郵便配達システムがあったことが記録されています(『三国志』東夷伝引用の『魏略』)。
また日本でも、飛脚たちが中継所(駅)をリレーして、バトン(文書)を手渡しで届け、今日の「駅伝競走」のルーツとなりました。
さて、これほど制度化された郵便システムですが、後漢末になると、戦乱のせいで道が塞がれて伝書が届かない(『三国志』魏書公孫瓚伝)こともありました。
正確な情報が途絶えたために、事あるごとにデマが飛び交って人々を惑わせたようです(『三国志』魏書陳泰伝)。
それも三国が鼎立し、世情が落ち着いてくると、少しずつ回復します。
曹丕が皇帝になると、大都市を中心に通信ネットワークの改革
魏では曹操の息子の曹丕が文帝となり、大都市を中心として通信ネットワークを整え、「郵駅令」を制定します。
これが中国史上初めての郵政法です。
ただ、この時は一般利用よりもまだ軍事連絡の方が需要が多く、もっぱら早馬に活用されました。
たとえば曹丕の弟・曹植の詩に「羽檄が北より来たりて」(白馬篇)という句がありますが、この「羽檄」は羽毛をさして緊急度を示した文書で、
今でいう速達便のことです。
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河川が多い呉の郵便配達システム
一方呉では、道路のかわりに水路を利用した「水駅」制度がつくられます。
河川の多い江南地方ならではの方法ですね。
スピードは一日で300里(約130km)から(『晋書』紀瞻伝)、速い時は600里(約260km)進んだそうです
(『太平御覧』職官部引用の『晋書』)。
道の険しい蜀は劉備と孔明が増設をする
蜀の場合は、道の険しい地方だったので、外部とのコンタクトが途絶えないよう、
劉備と諸葛孔明が一生懸命道を建設し、スムーズなアクセスを可能にしました。
蜀の太傅・許靖は魏にいる友人の華歆や王朗とよく手紙を送りあい(『三国志』蜀書許靖伝)、
また魏の尚書・陳羣が諸葛孔明宛てに、蜀の尚書・劉巴の消息について書簡で問い合わせたこともあります(『三国志』蜀書劉巴伝)。
同時に呉との間でも、親交を温めるため書簡や使者がたびたび行き来していますし
(『三国志』蜀書陳震伝)、諸葛孔明は呉にいる兄の諸葛瑾や将軍・陸遜と頻繁に連絡を交わしていました。
いかがでしょうか。
こうしてみると、今も昔も郵便屋さんの存在がいかに偉大か、よく分かりますね。
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