楊儀のうっかり発言
楊儀はうっかり「こんな事なら魏に亡命すりゃ良かった」と愚痴ってしまいます。この発言が問題となり、楊儀は官職を剥奪、庶人の身分で流罪となりました。流罪地でも色々な人の激烈な悪口を上奏という形で成都に送り、これに対し劉禅が楊儀を拘束させると、自殺してしまいました。魏延・楊儀2名の失脚に関わる費?の姿は「冷酷な切れ者の参謀」という印象を受けますが、彼は人徳も讃えられた人物でした。
才能だけでなく人柄も良かった
費禕の能力を示すエピソードに、尚書令として膨大な量の仕事をこなし、蒋琬亡き後は漢中滞在しつつ国政を取り仕切りながら、何と昼間っから宴と博奕を楽しんでいた…というものがあります。同じ四相と讃えられた董允(とういん)が費禕の跡を継いだのち、こうした振る舞いを真似しますが、たちまち行き詰まってしまったそうです。実務能力が高く記憶力と理解力に優れていた人物でした。また私生活は質素で蓄財を好まず、敵国の人間でも差別しない、おおらかで博愛の人物だったとも伝わります。能力に加えてこうした人格が、孔明からの厚い信頼を受けた理由だったのっでしょうね。しかし、その人柄が幸いし、不幸な最期をとげてしまうのです。
降将に暗殺される
蒋琬の元でも「北伐絶対反対」と専守防衛を旨としていました。諸葛亮でも成し得なかったのに我々では無理、国力を高めて後継に託そうと姜維(きょうい)を諭しています。243年に蒋琬が病に倒れたあとは実質トップとなり、244年の魏軍の進行を見事に防いでいます。蒋琬没後は益州刺史も兼任し、軍事・国政を一手に引き受ける立場になりました。
こうして蜀の重鎮として活躍する費禕ですが、人柄の良さは変わらなかったようです。253年、駐屯先で行われた正月の大宴会でしたたかに酔ったところを、魏の降将の郭循(かくじゅん)に暗殺されました。享年は60代だと思われます。
三国志ライター栂みつはの独り言
陳寿には「宰相としての能力は申し分無いけど脇が甘過ぎる」と評されています。陳寿だけでなく同世代の張嶷からも「人を信用しすぎる」と注意されていますので、こうした面はずっと持ち続けていたのでしょうね。費禕の後には残念ながら政治能力に優れた人物は出ず、また北伐を強行し国力を疲弊させる姜維を止められる人物もおらず、蜀は滅亡への道を進みはじめてしまうのです。