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費禕(ひい)ってどんな人?諸葛亮亡き後の蜀を支えた四相の1人

2015年11月26日


 

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費禕(ひい)、字は文偉は蜀の政治家です。蜀の四相の1人に数えられ、諸葛亮亡き後の蜀をよく支えた功臣ですが、その存在感、知名度はイマイチ…?という訳で費?がどんな人物だったのか調べてみました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実は劉璋の遠縁なんです

 

費禕の生年は不明です。しかし本人や伯父の経歴を見ると、諸葛亮よりも5~6歳年下かと思われます。江夏郡(現在の湖北省武漢市)生まれの費禕は若い頃に両親を亡くし、伯父の費伯仁のもとに身を寄せました。この費伯仁という人物は費禕より一世代ほど年上と伝わり、奥さんのお母さんが、何と益州牧である劉璋(りゅうしょう)のお母さん。劉璋と同世代で義理の兄弟という間柄でした。

 

こうした関係から、費伯仁は中原の戦乱を避け益州に移り住み、費禕も益州で学ぶようになりました。この頃の益州は、中原から遠く離れていること、劉璋の父劉焉が牧になってから上手く統治していたことから、暗愚と評される劉璋が跡を継いでもまだ平和を保っていました。

 

費禕は益州で成人し、劉璋に仕ることとなります。そして214年に劉備が入蜀した際も、益州を去らずそのまま劉備に仕えました。この頃のおそらく20代前半くらいでしょうか。既に蜀で名の知られた存在だったようです。

 

蜀で頭角をあらわす

劉禅

 

劉備の元ではその政治手腕を発揮しつつキャリアを積んでいきます。劉備が皇帝になり、劉禅(りゅうぜん)が立太子されるとその補佐役に付きました。時には外交官として呉に赴き、孫権(そんけん)のイケズや諸葛誕(しょかつたん)の嫌味な議論に対し理性的にきちんと答え、その才能を讃えられています。

 

呉からの帰還後(南征の後くらい)には侍中(皇帝の側近として直接問答を受ける重職 )に昇進し、北伐が開始されると諸葛亮に希望され従軍、幕僚として活躍し昇進を重ねていきます。北伐軍では仲の悪かった(流血沙汰一歩手前ってくらいの悪さ)魏延(ぎえん)楊儀(ようぎ)の仲裁を行うなど、実務以外に仲介役としても一役買っていたようで、後年この点も高く評価されています。また孫権から気に入られていたようで、北伐中でも呉への使者として何度か派遣されています。

 

諸葛亮亡き後は蒋琬の片腕に

孔明過労死

 

234年、5度目の北伐中に諸葛亮は陣中で没し、死の間際に後継者は蒋琬(しょうえん)、そしてその後には費禕を…と指名します。諸葛亮が没した直後の蜀軍は、司馬懿(しばい)率いる魏軍を相手に速やかな成都への帰還を目指すなか、身内の勢力争いの火種も抱える…となかなか大変な状況でした(ちなみに蒋琬は成都の留守を守っています)。

 

魏延

 

費禕はまず魏延(ぎえん)と楊儀(ようぎ)の仲を利用しつつ、北伐強硬派の魏延を処刑します。利用しつつと書きましたが、そうせざるを得ない状況だったようです。諸葛亮も「魏延は抑えられなければもう置いていっていいよ」と言い遺していました。成都とも連絡を取り合い、魏延は反逆した、という運びとなりました。こうして無事撤退し成都へ帰還し、蒋琬の片腕として政治の中枢で活躍するようになります。この頃、自分でなく蒋琬が後継者に選ばれ、挙句閑職に追いやられた(これは諸葛亮が、楊儀があまりに狭量なので言い遺していた)事で不満タラタラな楊儀が荒んでおり、費禕くらいしか家を訪れないという状況でした。

 

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栂みつは

栂みつは

初めましてこんにちは。栂(つが)みつはと申します。10代の頃から三国志にハマり、小説や演義では飽き足らず正史を購入。列伝を読みふけってはニヨニヨする残念な青春を送っておりました。

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