横山三国志を読んだ皆さんなら、等しく疑問を持つと思うのですが、、劉備(りゅうび)って、黄巾賊討伐で名を挙げてから反董卓連合軍に加わるまでの5年間、一体、どこで何をしていたのか記憶にありますか?
少なくともkawausoにはありません。そこで興味を持って調べてみると劉備の黒歴史が存在していたのでした。
この記事の目次
幽州にいた劉備、校尉 鄒靖(すうせい)に付き従う
三国志演義では、校尉の鄒靖が幽州で蜂起した黄巾賊に対抗する為に、官兵ばかりでは不足として、町々に義勇兵募集の高札を立てて、それを見た劉備が関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と共に義勇軍に応じて黄巾賊と戦い、手柄を立てるという事になっています。正史でも、鄒靖は登場し、劉備を配下にして黄巾賊と戦ったと蜀書先主伝にありますが、具体的に黄巾の誰と戦ったという記録はありません。
西暦187年、張純の乱に劉備は参戦する
西暦187年、元は太守であった張純が、烏丸(うがん)族の酋長である丘力居(きゅう・りき・きゅう)を抱き込み漢に対して反乱を起します。これを張純の乱と言います。張純は烏丸の騎兵を駆使しつつ、幽州の首都である薊(けい)を中心に略奪し、また、軍を青州や冀州まで派遣していたので、朝廷はこれを討伐させようと、公孫瓚に命令を出します。そんな折り、劉備と同族の劉平という男が劉備の武勇を見込んで官に上奏して劉備は従事として一軍を指揮する事になります。
が、張純の率いる反乱軍は、それまでの野盗のような黄巾賊とは大違い劉備はいきなり負傷してしまい、恐ろしさから死体の下にもぐりこみ、戦争が終わるまで死んだフリを貫きました。やがて戦闘が終わると、そこへ劉備の旧友がやってきたので、
「賊と戦い負傷したので歩けない」といい、手押し車に乗って帰還しました。
劉備、ラッキーにも死んだフリで中山安熹県の県尉になる
どうやら、賊の襲来で大半の官兵は死んでしまったようで、劉備が死んだフリを続けていた事を知る人はいなかった模様です。そこからは劉備の口八丁手八丁の独演会です。
「そこで私は孤軍奮闘して賊共を千切っては投げ、千切っては投げ!」
と事実を大幅に誇張して手柄を立てた事にし中山国安熹(あんき)県の県尉になります、県尉とは警察部長のような立場です。
劉備、督郵によりリストラ対象になりキレて鞭でしばく
が、劉備が順調に仕事をこなしていた所に督郵という役職の監察官が来ます。彼の仕事は、戦で手柄を立てて役職についている人員をリストラする事。劉備は、しっかりとリストラ対象になっていたようで、督郵は劉備の挨拶を病気だからと断り会おうとしませんでした。
督郵(ふん、どうせ首になるヤツの挨拶なんか受けてもしょうがない・・)
それにより、劉備は自分がリストラ候補になっている事を知りブチ切れます。
「命懸けで手柄を立てた俺をリストラとはいい度胸だ!どうするか見てろ!」
劉備は職権で兵士を動員して、「府君の密命で督郵を逮捕する!」と屋敷に踏み込んで、寝ている督郵のベッドを蹴りあげて、これを叩き起し縄で縛って県境まで引っ張っていきました。
劉備は督郵を殺すつもりでしたが、必死で命乞いをするので思いとどまり鞭で百叩きにした上で、大樹に縛りつけます。そして、劉備は腰に帯びた県尉の印綬を取り、督郵の首に掛けると、上司をしばいた、お尋ね者として逃亡の旅に出たのです。
劉備、都尉 毌丘毅と共に兵を集め下邳で賊と戦い破る!
劉備は上司をひどい目に遭わせてお尋ねモノになったので冀州を去り、今度は揚州(ようしゅう)の丹陽(たんよう)で賊討伐の募兵をしていた毌丘毅(かんきゅうき)と出会います。この頃の劉備たるや、三国志どころか水滸伝の好漢のような状態ですね。しかし、毌丘毅は、何進(かしん)大将軍より騎尉に任命された人で今やお尋ね者の劉備とは釣り合わないような感じがします。
これは推測ですが、毌丘毅と劉備は黄巾賊討伐の際に知りあいになっていて劉備としては、督郵を痛めつけた事に対する恩赦を求めて毌丘毅を頼り毌丘毅は「では、募兵に参加して、手柄で帳消しにせよ」とでもいい、劉備を募兵の一員に加えたのでしょう。
ラッキー?にも、徐州の下邳まで二人が来た所で徐州と青州の黄巾賊の残党が下邳(かひ)で蜂起し、劉備はこれを何度も撃退しました。これにより督郵を鞭でしばいた罪も帳消しになった(なんで?)劉備は北海国の下密(かみつ)という県の丞に任命されました。
劉備、下密の丞の位を再び放り出す
ところが、劉備、ようやく督郵をしばいた罪を帳消しにした(?)上で、手にいれた下密の丞(じょう)の地位を放り出してしまいます。どうした劉備?やっとリクルート人生を卒業できると思ったのに?
仕事がつまらなかったのか?気に食わない上役でも出てきたのか?
まあ、丞というのは、補佐官なので、上に立つ令か長とソリが合わないか何か、そういう理由があったのでしょう。自分の挨拶を無視しただけで逆上し、上役を鞭でしばくような劉備です。辞めるという位は朝飯前の感じもします。ああ、劉備のリクルート人生は、まだまだ続く・・・
と思いきや、劉備はその後青州の平原郡の高唐(こうとう)の県尉になります。まーた、投げだすかと思いきや流石に「三度投げ出したら駄目人間だ・・」という自覚もあったのか真面目に勤めあげ、尉から県令に出世します。
ようやく手に入れたポストを黄巾賊の襲来で奪われる
しかし、やっと県令にまで昇った高唐の土地に再び黄巾賊が襲ってきます。この時は多勢に無勢だったのか、劉備は県を放り出して逃走し蘆植(ろしょく)の門下生時代に机を並べた公孫瓚(こうそんさん)を頼ります。後には、自分に付き従う10万の流民を捨て置けず曹操に追いつかれた劉備ですが、、この頃には思い切り放り出しています、逆に清々しいです。
劉備、田楷(でんかい)と共によく袁紹軍を防いで平原国の相になる
公孫瓚は、劉備の参陣を喜び、朝廷に上表して劉備を別部司馬にします。別部司馬は、一軍を率いる将ですから、劉備は部隊長として抜擢されたのです。当時の公孫瓚の相手は袁紹ですが、劉備は田楷と共に袁紹(えんしょう)の攻撃をよく防いで手柄を度々立てました。
それを見た公孫瓚は、劉備の内政の才能を見ようと平原の県令と別府(べっぷ)司馬(しば)を兼職で担当させました。劉備は期待に応えて、繰りかえし起きていた黄巾賊残党の略奪被害を軍事力で防ぎ、一方で飢えに苦しむ民には施しを厚くします。劉備の才能を認めた公孫瓚は、劉備を平原国の相に任命します。
劉備が出世した事を妬んだ劉平が刺客を派遣するが・・
劉備が思いがけず平原国の相になった事で、劉平は格下の地位になります。彼はこれを嫉妬して憎むようになり、ついには刺客を放って暗殺しようとします。ですが、劉備は驚異の鈍感力の持ち主で、刺客の殺意に気が付かず、友人として歓待して気分よく付き合います。
それにより恩義を感じた刺客は、劉備を殺す気が失せてしまいます。
「私は劉平に雇われた刺客だが、あなたは誠に仁君だ、とても殺せない」そう言い残し、刺客は去っていきました。
死んだフリと反董卓連合軍への不参加が演義のライターには都合が悪かった。
このように、あまり知られていない劉備の5年間の黒歴史は、死んだフリ、上司を鞭でしばく、仕事を投げ出す、黄巾賊に襲われて県を捨て逃亡する。というように余りにも仁君というにはかけ離れた描写が多いのです。それに先主伝には、劉備が反董卓連合軍に参加したという記述もありません。これではライバルの曹操に比較しても、あまりに地味な印象になります。そのような事から演義ライターは劉備の空白の5年を黒歴史として、封印してしまったのではないかと推測します。
三国志ライターkawausoの独り言
しかし、劉平みたいな人、現実にもいますよね、、劉備が無名時代は応援してやろうと運動し、優越感に浸っていながら、劉備が自分より上に立つと嫉妬して刺客を放ち殺してしまおうとする。そこまでしても劉備は殺されず劉平の名は劉備を殺そうとした小さいヤツとして残ってしまうとは大変な皮肉です。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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