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孔明から劉備に仕えないかと誘われる
孔明は劉巴から手紙をもらうとすぐに返信します。孔明「わが主の勇名は天下にとどろき、主を慕って荊州の名士や猛将らがこぞってやってきています。あなたも我らと共に劉備様に仕えませんか。」と返書をしたため劉巴に送ります。劉巴は孔明の手紙を無視して、南の交州に行きます。しかし交州の主と喧嘩したため追い出され、益州に向かいます。
劉璋の為に様々な献言を行う
劉巴は益州の主である劉璋(りゅうしょう)から誘われ、仕える事にします。劉璋は何か起きると必ず劉巴を頼り質問。適切な答えが返ってくるため次第に重用します。劉璋は漢中の張魯(ちょうろ)を討伐するため、劉備に協力を要請します。劉巴は劉備に協力を仰ぐことに猛反対。劉璋に対して「劉備に協力を仰げば、必ず益州に禍が起きるでしょう。」と反対意見を述べますが、彼の意見は採用されませんでした。しかし劉巴は劉備が益州に入った後も劉璋に対して「張魯討伐を劉備に任せるのは危険です。どうかおやめくだされ。彼に張魯討伐を任せれば、軍を反転して益州に攻め込んできますぞ」と進言しますが、この意見も取り上げられませんでした。劉巴は自らの進言が取り上げられないと分かると拗ねて家に閉じこもります。
劉備に仕える
劉備は張魯討伐に向かわず、益州の都市を次々に陥落させ、益州の首都・成都城を包囲します。劉備は成都を包囲する際に「劉巴に危害を加えるな。もし加える者がいたら一族を処刑する」と厳命を下します。劉璋は包囲されてから数ヵ月後、劉備の降伏勧告に従い降伏します。劉巴は自らの身を保護してくれた劉備に今までのいきさつを謝り、彼に仕える事にします。
張飛は劉巴の家に遊びに行くが、一言も話さず
劉巴は劉備に仕えると人材の育成や面接官などの人事の仕事に従事します。彼は人事の仕事でしっかりと実績を上げていきます。劉備が漢中王になると彼は尚書になり、法正(ほうせい)が亡くなると跡を継いで尚書令に任命されます。尚書令に任命されてから数か月後彼の家に張飛が遊びに来ます。張飛は劉巴と仲良くしたいため色々な話をします。しかし劉巴は何も語らず、もてなしさえしませんでした。張飛は劉巴の態度に激怒し、その場を去ります。
武人と語り合う必要なし
孔明は張飛と劉巴の仲が険悪な状態にある事を知ると劉巴を呼び彼に「張飛は学が無く生粋の武人だが、あなたを尊敬していました。そんな彼に対してあなたのあの態度は良くないじゃないか。」と劉巴に伝えます。劉巴は孔明の意見を聞くと言い返します。劉巴「私は名士で四方の英雄と語り合う言葉はあるが、将軍ごときと語り合う必要はない」と反論します。孔明は劉巴の言葉を聞き、渋い顔をしてその場を去ります。
劉備の逆鱗に触れ、過激な発言を控える
劉備は劉巴の言葉を伝え聞くと激怒。孔明に「私はこれから将軍達や文官達と協力して、曹魏と戦い天下を安らかにしようとしている。しかし奴は俺に協力するつもりが無いのか」と憤慨します。劉巴は劉備の激怒した様子を知り、周りから疑惑をもたれないよう、過激な発言を控え過ごしていくのです。
三国志ライター 黒田廉の独り言
軍人の社会的地位は文官や名士らに比べて、当時からかなり低かったようです。この文官優位の立場は清が滅亡するまで、続いていくのです。劉巴がもし劉備ではなく曹操の元に帰って、傲慢な態度を取っていれば即座に処断されたかもしれません。彼のように傲慢な態度を取り続けた孔子の子孫・孔融(こうゆう)は曹操に処断されています。曹操より過激ではなかった劉備だからこそ処断されずに済んだのかもしれません。