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この記事の目次
優等生過ぎて覇者になり損ねた宋の襄(じょう)公
覇者となった桓公ですが、その頃から奢りが発生して愚かになります。元々、凡庸で管仲の献策を素直に聞く事だけが取り柄で覇者になった人ですから始末に負えません、いよいよ管仲まで病死すると歯止めは効かなくなり、後継者問題で斉は大混乱、死んだ桓公の遺体は埋葬もされず放置され、腐乱した体からは、蛆が湧くと言う悲惨な最期を遂げます。
そこで、覇者に近づいたのが宋の襄公でした。宋は、元々は殷(いん)の残された民が興した国であり、国民は誇り高く、融通が効かない所がありました。
襄公はそういう国民性の典型のような人で、斉の桓公が倒れた今、殷王の血筋を引く自分が覇者になって、中華世界を牽引しようという偉大な志がありました。襄公は即位すると、斉の争いに介入して宋に居た斉の公子、昭(しょう)を立てて孝(こう)公として即位させます。これによって襄公の声望は高まり桓公を真似て、孟(もう)で会盟を開きますが、宋の勢力が伸びる事を嫌った楚の重臣の手で拉致・監禁されて出席できず大恥をかきます。
宋の襄公フェアプレイ過ぎて大敗
怒った宋の人々は、当時中華最強の楚に決戦を挑むべきと主張します。襄公も、この声に応えて軍を集めて泓水(こうすい)の戦いを開始しました。当初、楚より早く戦場についた宋、そこに楚軍が出現して河を渡り始めます。襄公の宰相の子魚(しぎょ)が、これを見て、「今がチャンスです攻撃しましょう」と進言します。
しかし、優等生である襄公は、「敵が困っている時に攻撃するのは、仁者のする事にあらず」と渡河中の楚軍を攻撃する事を頑なに拒否しました。
「今は戦時で平時とは、わけが違いますぞ!」
子魚は、それでも説得しますが襄公は動かず、やがて体制を立てなおした楚軍によって、宋軍は撃破されました。ここから、無用の情けをかけて自分が危うくなる事を宋襄の仁と言います。襄公は、この戦で太股に矢を受けて、その傷が元で二年後に病死します。
晋の文公、楚を撃破して覇者になる!
宋の襄公がしくじった後、次に覇者になったのは、晋の重耳(ちょうじ)でした。超大国、晋のプリンスとして40歳まで何不自由なく過ごした重耳ですが、父の献(けん)公が美女、驪姫(りき)の愛に迷い、彼女の言う通りに、重耳達を排除するようになると、危険を感じて国外に逃亡します。
そこから、19年間、重耳は、流浪公子として各国の世話になります。救われたり、侮辱されたり、止め置かれたり、尋常一様ではない苦労をした重耳は、誰もが一目置く、立派な君子に生まれ変わります。そして秦の軍勢を借りて、混乱する晋に戻ると、政敵を追放して文公に即位します。その頃、再び、楚は晋を倒そうと長江を渡ろうとしますが、文(ぶん)公は、諸候をまとめて楚に立ち向かい、城濮(じょうぼく)の戦いで撃破しました。その功績で紀元前632年、斉の桓公を継ぐ第二の覇者になります。
第三の覇者になった秦の穆(ぼく)公
晋の文公と相前後して覇者になったのが、秦の穆公です。穆公は、秦が強大になる基礎を築いた人物で、他国出身者でも、優秀な人間をどんどん招いて高いポストにつけ、また周辺の小国を次々に討伐して、秦の勢力を伸ばしました。
晋が大混乱している時、穆公は秦の軍勢と共に重耳の弟の夷吾(いご)を送りこんで晋で即位させますが、恵王として即位した夷吾は、かなりの悪党で、秦への裏切りを度々、繰り返します。それに怒った、穆公が晋に送りこんだのが、恵王の兄だった重耳でした。
穆公は、恵王と違い、謙虚で慎み深い、文公を気に入り、両国は、しばらく友好関係でしたが、文公が死ぬと再び関係は悪化、穆公は、軍を送りこんで、晋軍を撃破します。当時、覇者の文公の国を倒した事で覇者に数えられますが、紀元前621年、死去します。
穆公と共に177名が殉死(じゅんし)し、秦の勢力が後退
穆公は、長命ならば、始皇帝を待たずに天下を統一したかも知れない傑物でしたが、彼の死後、秦は習慣で有能な家臣を177名も殉死させ、秦からは、有能な人材が消えてしまい、覇権争いから後退しました。
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