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この記事の目次
第4の覇者、楚の荘(そう)王
秦の穆公に次いで、覇者になったのは長江の以南の楚でした。元々、楚は周に任命されたのではなく独自に王が出て領土を広げた中華諸国とは異質な王国です。その為に、周王と同等であるという意識から、これを軽んじて、他国が公止まりである時期から王を自称しています。
荘王は、即位から3年、わざと政務を取らずに遊び暮らし国が乱れるままに任せていましたが、命懸けで諫言をしてきた家臣が出るに至り動き出します。こうして壮王は、汚職をしていた役人数百名を殺し、同時に、壮王が遊び呆けていても、真面目に仕事をしていた役人数百人を積極的に登用します。これにより、楚からは汚職が追放され国力は強化されました。
挑発的な荘王は、洛陽の近くまで大軍を送って、閲兵式を行うなど圧力を掛け、晋軍を撃破するなどして影響力を長江の北まで拡大し紀元前591年に死去します。
王権が弱まり、貴族の時代が到来する
さて、荘王を最期として、しばらく中原の地域では、諸候同士の武力のぶつかり合いは起らなくなります。その理由は、元々は諸候の家臣に過ぎなかった貴族達が生産力の向上で力をつけて、団結すると、時として主君を凌ぐ力を持ったからです。彼等は、対外戦争には関心がなく、もっぱら国内の勢力争いに明け暮れたので、戦争が起きない方が都合が良かったのです。
紀元前546年には、超大国であった楚と晋の間で、弭兵(びへい)の会が行われ、長期の停戦期間が誕生します。この時代は貴族の台頭により、それまで下層階級として、歴史に登場する事が無かった、晏嬰(あんえい)や子産(しさん)、羊舌肸(ようぜつきつ)というような人士が勢力を伸ばそうとする貴族に登用され、浮かび上がっていきます。
それは、血縁ではなく能力で地位が決まると言う新しい時代の幕開けでした。
春秋時代、呉越の戦い
一方で、楚の東の長江流域では、呉と越という二つの国が出現します。両国とも、歴史は長いのですが、史書に出現するのは、紀元前6世紀です。呉は、呉王闔閭(こうりょ)と息子の夫差(ふさ)それに名臣として知られる、孫武(そんぶ)や伍子胥(ごししょ)の活躍で勢力を伸ばし、越は、越王句践(こうせん)や名臣范蠡(はんれい)が登場して覇権をめぐり、長い抗争を繰り広げます。
当初は、父の復讐に燃える呉王夫差が、伍子胥の補佐を得て、句践を破り、中原の超大国の晋と覇者の地位を争っていましたが、敗れた句践は、注意深く夫差の警戒心を解かせ、伍子胥を遠ざけて自殺させ最期には、呉を滅ぼして覇者になります。しかし、句践の越も呉を滅ぼした後はパッとせず、国力を低下させていき、紀元前306年頃までに楚により滅ぼされます。
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晋、魏・趙・韓に分裂し春秋時代終わる
越王、句践は、紀元前465年に死去します。それから、12年後、紀元前453年には、超大国だった晋が、国内の貴族だった三卿(さんきょう)、魏、趙、韓により分裂させられます。これが戦国時代の始まりであり、春秋時代の終結です。
当初は周王朝の没落から、諸候同士の激突に移行して始まった春秋時代は、終わりには、諸候の家臣であった貴族達による本家の乗っ取りによって幕を降ろします。大国であった斉でも、亡命貴族の田(でん)氏が、斉本家を凌いでいき、紀元前386年に田和(でんわ)によって斉は簒奪され、太公望から続いた姜(きょう)姓の斉は滅亡し、田氏の斉が興りました。
春秋戦国ライターkawausoの独り言
約300年に及ぶ春秋時代をざっくりと紹介してみました。こうして、戦国七雄が出そろい時代は戦国時代へと突入して行く事になるのです。本日も悠久の春秋戦国時代に乾杯!!
—熱き『キングダム』の原点がココに—