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八千の兵で劉勲を待ち伏せ撃破
帝位を専称していた袁術が死に、その軍を吸収した盧江郡の劉勲と表面上仲良くやっていた孫策でしたが、偽りの同盟をもちかけます。そして劉勲が兵を動かした隙に、その城を孫策が乗っ取ってしまうのです。そのとき、孫賁・孫輔兄弟は協力して伏兵となり、八千の兵で劉勲の兵を打ち破っています。これで孫家は楊州の大半を手にするのです。
孫賁の娘は曹章(曹彰)の妻に、政略結婚
江東を制した孫策を懐柔しようと、曹操は政略結婚をもちかけます。曹操は弟の娘を孫策の末弟・孫匡に嫁がせ、わが子・曹章(曹彰)の嫁に孫賁の娘を迎えます。血のつながりをもって互いの勢力が戦わずに協力し合う方向です。曹操にとっては珍しい戦略でもあります。ちなみに曹彰は曹操亡きあと、家督争いに敗れて亡くなっていきますが、その子孫は生き残り、晋の時代にも繁栄していきます。曹家と孫家の両方の血筋を引き継いだ者が、絶え間なく新しい時代でも活躍しているのは少し不思議な感動があります。あらためて、袁術が孫家を援護し、応援したからこその結果です。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
孫賁・孫輔は、孫策が本格的に台頭してくるまでの孫家が不安定な時期を守り抜いた二人です。あくまでも袁術庇護のもとですが。江東平定にも尽力し、曹操との仲も取り持つなど、活躍の場を充分に与えられています。しかし、弟の孫輔は、孫権が当主になった際にひそかに曹操に手紙を送り、寝返りの約定を交わしていた様子です。それが明るみに出て、側近皆殺し、兵を没収、追放とされています。兄の孫賁も曹操が荊州を手中にした頃に人質を出して帰順しようとしたとあります。肉親がこの動揺ぶりですから、他の家臣も揺れていたでしょう。血族の曹操への内通が相次ぐ中で、それを逆手にとって、赤壁の戦いでは黄蓋の偽りの寝返りが絶大な効果を発揮することになります。曹操の撃退に成功します。そして古参の将が薄らぐ中、年々、孫権独裁色が強まっていくのです。