夷陵の戦いで劉備率いる蜀軍を完膚なきまで叩き、その後も呉の重鎮として内外から高い評価を受けていた大都督・陸遜(りくそん)。彼には弟がいました。その名を陸瑁(りくぼう)と言います。陸瑁は晩年になって孫権(そんけん)に仕え、孫権が誤った方向に向かおうとした時恐れず忠告を行った人です。
従祖父陸康の元に身を寄せる
陸瑁(りくぼう)の父は早くに亡くなり、兄陸遜と共に盧江太守で従祖父の陸康の元に身を寄せます。彼は若い頃から学問が好きで、義侠心溢れる人柄でした。陳融(ちんゆう)・濮陽逸(ぼくよういつ)など有力者が居ない貧乏学生達は彼の義侠心を頼ってきます。陸瑁は彼らを快く受け入れ、お金や物、食料など惜しげもなく与え、援助します。
陸康が孫策に殺される
陸康は袁術から「兵糧を援助してくれないか」と依頼されます。しかし陸康は彼の依頼を断ります。袁術は兵糧援助の話を断られ、陸康に恨みを持ちます。その後袁術は孫策に命じ、陸康を討伐させます。陸康は袁術の配下であった孫策に抗いますが、彼に敗北。その身は捕虜なり孫策に殺されてしまいます。陸瑁は養ってくれた従祖父が孫策に殺された事を大いに恨みます。そしてこの恨みは中々晴れる事はありませんでした。
孫権の呼びかけに応じない
兄陸遜は二十一歳の時、孫権から招聘され仕える事になります。この時弟である陸瑁にも声がかかりましたが、彼は孫権の招聘に応えませんでした。その理由は従祖父陸康が孫家のせいで殺された事を恨んでいたからです。その後州や郡からも「仕えないか」と声がかかりますが、彼はこの呼びかけに応じる事はありませんでした。
兄に遅れる事三十年、ついに孫家に仕える
陸瑁は兄に遅れる事三十年、ついに孫家に仕える事になります。孫権は彼を迎えるため、公車(官吏を任命する時に使用する迎えの車)で彼を迎えに行きます。彼はそれに乗り、孫権の宮殿へ赴き選曹尚書の位を与えられます。
公孫淵の裏切りに激怒
遼東の独立勢力である公孫淵(こうそんえん)は孫権に従いたいと伝えてきます。孫権は喜んで公孫淵に金銀財宝を満載した船を用意し、使者を派遣します。しかし公孫淵は突如心変わりし、孫権の使者を斬り殺し、金銀財宝を奪います。孫権は公孫淵に激怒。自ら軍を率いて公孫淵討伐に向かうと周りに言います。家臣らは必死になって孫権を諫めますが、聞き入れてはもらえませんでした。
陸瑁の諫言
陸瑁は孫権自ら公孫淵討伐に乗り出すと聞きます。彼も孫権に対して「魏は常に呉を滅ぼそうと企んでいます。また山越などの異民族は孫家の隙を狙って反乱を起こそうと考えています。このような状況下に置かれている時に陛下自ら公孫淵討伐に赴くことは危険です。どうか考え直してくれませんか。」と訴えます。孫権は彼の言葉を聞き入れてはくれませんでした。また孫呉の宿老である張昭も孫権に諫言を呈しますが、孫権はこの宿老の諫言も退けます。だが他の臣も陸瑁や張昭のように、孫権に対して必死に諫言を呈したため、彼は公孫淵討伐を思いとどまります。陸瑁はその後病を患い、兄陸遜が亡くなる前にこの世を去ります。
三国志ライター黒田廉の独り言
孫家に恨みを抱いていたため、仕える事が遅くなった陸瑁。陸瑁は三国志演義に登場しません。また兄陸遜が「呉書」でしっかりと紹介されているのに比べ陸瑁はあんまり詳しく紹介されていませんでした。そのためかなり知名度の低いマイナーな武将です。彼がもっと早く孫家恨みを解いていれば、兄陸遜と共に呉国を担う人材として重用されていたかもしれません。









