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ミッション2:曹休に救援部隊を送れ
こうして青州を回復させた彼は、揚州刺史に任命されます。彼は揚州に赴くと、青州と同じように人心は荒廃。また田畑は長年呉と魏の係争地であったため、ボロボロでした。王淩は青州と同じ方法を用いて、揚州を治めていきます。こうして彼の統治方法が成功を見せている最中、急報が届きます。使者は「曹休様が石亭にて呉軍に包囲されております。すぐに救援をお願いします」と伝えてきます。王淩はすぐに軍勢を率いて、石亭へ向かいます。
ミッション3:危機に陥った曹休を救え
王淩は軍勢を率いて石亭へ向かう途中、賈逵(かき)と出会います。賈逵も曹休の危機を救出する為、急いでおりました。彼は賈逵と合流し、曹休が戦っている石亭へ急ぎます。彼らは石亭に着くと呉軍に全軍で突撃し、何とか曹休を救う事に成功し、撤退します。曹休は何とか死地を脱しますが、その後病を発し亡くなってしまいます。しかし王淩はミッション成功を果たします。
ミッション成功報酬は
王淩は曹休救出の成功と揚州の統治の実績が認められ、征東将軍(せいとうしょうぐん)・都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ=揚州全域の軍事を司る職)に就任します。また翌年呉の全琮が揚州に攻め込んできた際には、大いに呉軍を撃退。この時の功績も後に認められ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)に昇進します。
王淩は曹操に仕えた事により、彼の運命は大いに変化を遂げます。また曹魏もこの知勇兼備の将を手に入れた事により、荒廃した土地の回復・民心の安定など大いに魏国に役に立つ存在となります。明帝の時代までは王淩の運命はグングンと上がっていきますが、曹叡死後少しずつ彼の運命が凋落していきます。王淩は魏国の重鎮として、高い地位を得ます。しかし彼には一つの悩みがありました。その悩みとは司馬家の台頭です。
司馬家は魏の国内で強い権力を保持し、中央で権力をふるいます。王淩は司馬家が魏の国を操っているこの状況に憤慨し、ある計画を立て始めます。
三代目皇帝に不安を抱く
二代目皇帝である曹叡(そうえい)が亡くなると、曹芳(そうほう)が三代目皇帝として跡を継ぎます。王淩はこの皇帝が曹叡の後継ぎであることに不安を抱きます。その理由は曹芳が若い事です曹芳は皇帝になった時、まだ十八歳という若さでした。この若さでは政治を行う事が難しく、中央で権力を高めていた司馬家に操られてしまうのではないかと危惧。そこで彼は違う人物を皇帝に立てようと画策します。
一つの予言がきっかけで…
王淩の従弟である令弧愚(れいこぐ)は一つの予言を耳にします。その予言は親密な関係を築いていた令弧愚が治めている兗州で、「白馬が白い轡(くつわ)をはめて西南に馳せ向かう。乗っているのは誰か。それは朱虎だ」という予言が広まっておりました。この予言に出てくる白馬は曹彪が以前治めていた土地で、朱虎は曹彪の字です。白馬から西南には許昌があります。
令弧愚はこの噂を従兄弟である王淩に伝えると、王淩は「この予言は曹彪殿を帝位に告げよと天が言っているのだ。すぐに彼を帝位に就くように勧めよう」と言い、曹彪を皇帝に就任させるべく計画を立てます。
曹彪に意見を聞く
令弧愚は王淩から「曹彪殿の元へ行き、皇帝になるつもりがあるのか探ってきてくれ」と言われます。令弧愚はすぐに曹彪の元へ向かいます。彼は曹彪と会見し「私達があなた様を皇帝に擁立する事が出来たら、協力してくれますか。」と尋ねます。すると曹彪は「もしできるのであれば、お願いしたい」と答えます。令弧愚は曹彪から色よい返事をもらうと、王淩に報告。その後同士を集めるべく東奔西走します。しかし令弧愚は計画の同士を集めている途中で亡くなってしまいます。
皇帝擁立計画を進める
王淩は令弧愚が亡くなると自ら同士集めを行います。また息子で洛陽に居る王廣(おうこう)に「曹芳殿を廃して、楚王曹彪殿を新たな皇帝を立てようと思っている。」と相談。父から相談を受けた王廣は大反対します。しかし王淩は息子の意見を聞かずにそのまま計画を押し進めます。
呉討伐をきっかけにして、司馬家を討つ
王淩は呉軍が涂水(とすい)をせき止めた事を知り、呉軍の侵攻が近い事を知り、迎撃態勢を整えます。その後呉を討伐するべく皇帝に上奏します。王淩はこの上奏が許可されれば、すぐさま軍を率いて呉軍を迎撃するのではなく、許昌へ向かって進軍し、魏の朝廷で専横を極めている司馬家討伐を考えておりました。しかし朝廷からは呉討伐の許可はおりませんでした。
反骨の武将黄華を仲間に入れる
王淩は呉討伐の許可が下りないと知ると次の手を打ちます。彼は部下である楊弘(ようこう)を令弧愚の後任で兗州刺史となっている黄華(こうか)の元へ派遣。なぜ黄華に使者を派遣したのか。その理由は彼の前歴にあります。彼は涼州の酒泉郡(しゅせんぐん)で独立勢力として魏に反旗を翻しており、最近魏に降った反骨の武将でした。そのため王淩は彼なら司馬家に背いて、仲間になってくれるはずだと判断し、使者を派遣します。黄華は楊弘から皇帝廃立計画の内容を聞き驚き、王淩の使者である楊弘を連れて司馬懿の元へ赴き、王淩が計画した皇帝廃立計画の内容を知らせます。
司馬懿の策謀
司馬懿は二人から王淩が企てた皇帝廃立計画の内容を知り、王淩を逮捕する為、策を立てます。彼はまず軍を率いて寿春へ向けて出発。彼は寿春へ途中、王淩が企てた罪を許す書状を彼に送ります。また王廣に「あなたの父が企てた皇帝廃立計画の罪を許したいと思うのだが、父を説得する書状を書いてもらえないだろうか」と尋ねます。すると王廣は喜び、父を説得する書状を書いて送ります。司馬懿はこうして王淩の油断を誘う策を実行後、寿春から近い百尺堰(ひゃくせきえん)に到着します。
皇帝廃立計画を諦め、司馬懿へ降る
王淩は司馬懿が大軍を率いて百尺堰に到達したと知ると、皇帝廃立計画を諦め、自らの体を縄で縛って、司馬懿の元へ赴きます。司馬懿は王淩が自らの体に縄を縛ってやってきたと知ると、縄目をほどくように指示。王淩は司馬懿から縄目をほどくよう指示されると、罪を許してくれるのだと考え、単身司馬懿が乗船している船へ乗り込もうとします。しかし司馬懿の船は王淩が乗っている船を寄せ付けませんでした。
司馬懿に騙された反逆者の最期
王淩は司馬懿が乗船している船の近くに寄り、「あなたから書簡をもらって私は来たのになぜ、船に乗せてくれないのだ。」と尋ねます。すると司馬懿は「君は私の書簡通りにする人ではないから、乗せないのだ」と反論。王淩は激怒し「貴様。私をだましたのか」と大声で叫びます。司馬懿は涼しい顔をして「私は君をだましても国家をだますことはしない。」と言い返し、側近に「捕えよ」と命じます。王淩は捕えられた後、収監者に乗せられ洛陽へ護送されます。王淩の収監者は項県を通ります。彼は友であった賈逵(かき)が治めていた土地で彼が祀られている祠を目にすると「賈逵よ。私は魏に忠義を尽くしてきた者だ。どうかこの事をあなたにだけは知っていてもらいたい」と述べます。その後彼は洛陽に到着する前に、毒を煽って自殺します。
三国志ライター黒田廉の独り言
知勇兼備の将であったはずの王淩は予言に踊らされ、皇帝廃立計画を立てます。しかしこの予言は確たる理由もなくささやかれていただけなのに、なぜ彼は信じたのでしょうか。知勇兼備の将であったはずの彼にしてはいささか軽率な行動であるように思えます。しかしその理由は歴史の中に埋没しており、現在となっては彼が皇帝廃立を計画した事が厳然たる事実として歴史に残っているだけです。
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