司馬家打倒をもくろんだクーデター計画が発覚
鍾毓はその後曹爽に疎まれ、一時期魏の政権の中枢から離れる事になります。しかし司馬家が曹爽を倒し、魏の政権を握ると再び中央へ呼び戻され、廷尉に任命されます。彼は廷尉に任命され再び中央に戻ると、一生懸命職務に励みます。そんなある日大事件が発覚。中書令である李豊(りほう)が司馬家一族を打倒する計画を立てたとして処断されます。このクーデター計画に加担した人は多く、大勢の人が逮捕されます。その中の一人に夏侯家の秀才で、天下の名士として知られていた夏侯玄も逮捕されます。
生涯一度の悪事
鍾毓は非常に優秀な人物でしたが、そんな優秀な彼も唯一の汚点を残します。司馬家を打倒する計画に加担したとして夏侯玄は逮捕されますが、クーデター計画の内容を一切語らず、取り調べを行った役人は大いに困っておりました。そこで廷尉となっていた鍾毓に夏侯玄の取り調べるよう命じられます。しかし彼も夏侯玄からクーデター計画の供述を得る事が出来ませんでした。そこで彼は辻褄が合うよう供述書を勝手に作り、夏侯玄(かこうげん)に涙を流しながら見せます。すると夏侯玄は頷き、彼に供述書を返します。その後夏侯玄は鍾毓が作った供述書によって処刑。彼はその現場を見て再び涙を流し、夏侯玄に頭を下げます。偽の供述書作りは彼が行った生涯唯一の悪事です。
司馬家の重鎮となる
司馬家打倒事件はこうして終息します。その後司馬家に不満を持つ諸葛誕が反乱を起こしますが、司馬家の圧倒的な軍勢により、敗れ去ります。鍾毓は諸葛誕が破れた後、司馬昭から青州刺史に就任。青州刺史に任命されてから数年後、荊州の軍事を司る都督荊州諸軍事(ととくけいしゅうしょぐんじ)に昇進。魏国の重鎮として弟鍾会と共に活躍していきます。しかし鍾毓は荊州諸軍事に任命されてから数年後病により亡くなります。彼も数々の功績を残した臣として司馬昭から「恵侯」と諡(おくりな)され父や弟と共に歴史に名を刻みます。
三国志ライター黒田廉の独り言
鍾毓は魏と司馬家両方に仕え、その名を天下に轟かせます。そんな彼は若い時面白いエピソードが残っています。鍾毓と鍾会はある日父が寝ている隙をついて、勝手に酒を飲みます。鍾繇は狸寝入りをしながらふたりの様子を伺っておりましたが、鍾毓は酒を飲む前に頭を下げてから飲みます。鍾会は何にもせず、そのまま酒を飲み始めます。鍾繇は翌日二人を招き、「稚叔(ちしゅく=鍾毓のあざな)。お前は昨日酒を飲む前に礼をしていたがなぜだ」と尋ねます。すると鍾毓は「昔から酒は以て礼を為す。とありますので頭を下げました。」と答えます。鍾繇は彼の答えを聞き満足します。そして鍾会にも「士季(しき=鍾会のあざな)よ。お前はなぜ頭を下げなかったのだ。」と問いかけます。すると鍾会は「盗みを行っているのに、なぜ礼を行わねばならないのでしょうか」と答えます。鍾繇は彼の意見にも満足し、その場を離れます。このエピソードはふたりの性格の違いが表れております。鍾毓は先例を真似て動く為、失敗が少ない事が性格として表れております。言うならば「保守的」な性格です。一方鍾会は先例を無視して、冒険を好む性格を持っております。いうなれば「先鋭的」な性格です。対照的な性格を持った兄と弟は別々の道を歩みますが、二人とも歴史に名を残した名臣であることは間違いありません。