三国志の蜀(しょく)には名将達がたくさん存在しており、数々の名言を残しております。
しかし三国志の蜀の名将達の名言を知りたいけど調べる時間が無いや
探すのが面倒くさいという人達の為に、
今回三国志の名将達の名言や逸話を五分でわかるようにまとめてみましたので、
紹介いたします。
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この記事の目次
優れている人を指し示す馬良の逸話「白眉」
劉備が建国した蜀には多数の有能な人物が配下として揃っております。
今回はその中でも「白眉(はくび)」と称された馬良(ばりょう)についてご紹介します。
彼は荊州(けいしゅう)出身の武将で、
幼い頃から学問に励んだ事で博識でした。
そんな彼の博識ぶりに周りの大人達は驚いておりました。
そんな彼には一つの特徴がありました。
それは眉毛に白い毛が生えている事です。
この事から馬良が生まれた郷の大人達は「馬氏の五人兄弟の中で、白眉が一番優秀だ。」と
馬良の事を評します。
馬良の家は五人兄弟で、全員優秀ですがその中でも一番優秀な人は馬良でした。
そのためこの白眉の意味は同じ種類の事柄を知っている人達や
博識で優秀な人を指し示す言葉です。
馬良が優秀で白い眉毛をしていたことからこのような優秀な人達を「白眉」と
して称えるようになります。
また「泣いて馬謖を斬る」で有名な馬謖(ばしょく)は五人兄弟の中で、
一番末っ子の生まれです。
諸葛孔明の泣ける名言:臣敢えて股肱の力を尽くし、忠貞の節を効(いたし)
これに継ぐに死をもってせん
劉備は関羽の復讐戦である「夷陵(いりょう)の戦い」で大敗北し、
永安(えいあん)城へ命からがら逃げかえります。
彼は夷陵の戦いでの敗北によってすっかり元気をなくしてしまい、
病にかかってしまいます。
その後劉備の病は一向に良くならず、彼は自分が亡くなった後の事を託すため、
孔明を枕元に呼びます。
そして劉備は最後の力を振り絞って「もし私の子供が才能に乏しい子供であったら、
君が益州の主となってくれ」と遺言を残します。
この時の劉備の発言に答えた言葉が上記の言葉です。
この言葉の意味は「私は陛下のご子息を立てて、精一杯自分の力を尽くして、
陛下のご子息に忠誠をささげ、私の命に代えても守っていくつもりです。」と
いう名言です。
孔明はこの名言を泣きながら劉備の前で発言したそうです。
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五虎将軍・趙雲を表した名言「子龍は一身これ胆なり」
趙雲(ちょううん)は五虎将軍(ごこしょうぐん)筆頭として知られる蜀の名将ですが、
そんな彼を表した名言が残されております。
その名言は劉備が漢中攻防戦の時、趙雲に対して
「子龍(しりゅう)は一身これ胆(たん)なり」と評価した事がきっかけで、
現在に名言として残っています。
この言葉は定軍山(ていぐんざん)の戦いの時に、黄忠(こうちゅう)が、
手柄を焦って一人で敵中に突撃していきます。
趙雲は黄忠が一人で敵中に突撃したと聞くと手勢を率いて黄忠を救出に向かいます。
彼は曹操軍の中で孤立しながら奮戦している黄忠を発見すると、すぐに撤退戦を開始。
趙雲は多数の曹操軍に対して伏兵と空城の計を用いて、
何とか曹操軍の追撃から逃れ、黄忠の救出に成功します。
この時の撤退戦の模様を聞いた劉備は、
諸将を集めて後趙雲をみんなの前でほめた言葉が上記の名言です。
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三国志ライター黒田廉の独り言
三国志の名言を忙しい方達や調べるのが面倒だという人達の為に、
厳選して紹介いたしました。
これらの蜀の武将達の名言を知る事で、
三国志の蜀の人達がより詳しく分かることができるのではないでしょうか。
まだまだ三国志の武将達の名言は色々と存在しますので、
また発見したら不定期ですが、ご紹介していきたいと思います。