後漢時代の文学者として知られ、暴虐なことで知られる董卓(とうたく)に一目置かれた蔡邕(さいよう)。彼には息子がおりませんでしたが娘がおりました。その娘の名を蔡琰(さいえん)といいます。彼女は某アクションゲームに登場したことがきっかけで大きく知名度が上がり、蔡琰(さいえん)よりも字である文姫の方が有名であるため、ここでも蔡文姫(さいぶんき)としてご紹介します。彼女は文学者である蔡邕の娘らしく博識で、音楽や詩にも堪能で男に生まれていれば間違えなく活躍した人材でありました。しかし彼女は女性として生を受けた事とその優れた才能のせいで人生が大きく狂っていくことになってしまいます。
自慢の娘
蔡邕のたった一人の娘として生を受けた蔡文姫(さいぶんき)。彼女は幼い頃から父親の影響を受けて書物を読み、大人になると父と同じく文才の才能を開花させるだけではなく、文学から得た知識によって色々な故事にも詳しくなり、弁論も爽やかで音楽や詩にも堪能な完璧な人で、加えて顔も美形であり文句なしの人物でした。この完璧美女は一度結婚することになるのですが、旦那がなくなってしまったことがきっかけで父の元に帰ってくることになります。その後父と共に文学や歴史書などを読み、インテリガールとして日々を過ごしていくことになります。
匈奴に拉致られる
蔡文姫は父の死を悼んで喪に服しており、外の情報があまり入ってきませんでした。この時長安は大いに乱れており李傕(りかく)らの董卓残党軍が、長安の王允らに攻撃を仕掛けてきます。王允と共に董卓暗殺計画に加わっていた呂布が李傕等の軍勢と戦いますが敗北してしまいます。こうして呂布が敗れてことで長安を守る軍勢は亡くなり、たった8日ほどで陥落。その後王允は殺害され漢の皇帝である劉協(りゅうきょう)は彼らによって奪われてしまいます。この乱れた長安に匈奴の騎馬隊が侵入しており、宝物や人を拉致しておりました。蔡文姫の家にも匈奴の騎馬隊が乱入してきて彼女を拉致し、匈奴へ連行されることになります。
匈奴の左賢王と結婚
蔡文姫は長安に乱入してきた匈奴軍に拉致たれた後、匈奴の単于が漢文化をよく知っている女性であると部下から言われます。この言葉がきっかけで、彼は自分のむすことである左賢王(さけんおう)である劉豹(りゅうひょう)の側室として迎えられることになります。その後劉豹の息子を二人産んだ後、なんと12年間も匈奴で生活することになります。その間彼女はすっかり匈奴の人間になってしまいますが、漢の文化を忘れたわけではありませんでした。
漢へ帰還
曹操は袁紹(えんしょう)との戦いを制して中原と河北の両方を手中に収め天下一の勢力として、中華に君臨することになります。こうして中華最大の勢力となった彼は蔡邕と親しく付き合っていたことを思い出します。そして蔡邕に娘がいたことを思い出し側近に彼の娘が今どうしているのか調査するように命じます。調査を命じてから数日後曹操の元へ調査の結果を知らせに部下がやってきます。調査の結果蔡文姫は匈奴に拉致られた後、左賢王の妻になっていることが判明。曹操は蔡文姫を漢へ帰還させるため匈奴に大量の宝石や金を贈るとともに、蔡文姫を漢へ返すように要請します。匈奴は曹操からの条件を飲み左賢王と蔡文姫を離縁させて漢土へ送り返す代わりに莫大な褒賞を手にすることになります。こうして12年ぶりに漢の土を踏むことになった蔡文姫ですが、自らが生んだ子供達と別れなけらばならず彼女にとっては辛い別れでした。
蔡文姫の息子の消息は史書では不明ですが、左賢王劉豹(りゅうひょう)の息子には他にも後に五胡十六国時代の幕開けとなる前趙(ぜんちょう)の皇帝劉淵(りゅうえん)がいました。系譜上は蔡文姫の息子達とは異母兄弟という事になります。ただ、劉淵は西暦251年生まれで劉豹の晩年の嫡子なので、異母兄弟と言っても、親子以上年齢が離れていますけどね。
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