長い間、歴史に偉大な足跡を残した暴君として、良くも悪くも話題になった中国史上、最初の皇帝、秦の始皇帝。しかし、彼の死後、2200年を経た今でも、まだ分らない謎が残っています。その代表的な謎に、始皇帝には皇后の記録がない事があります。そこで、はじさんでは、始皇帝にはどうして皇后の記録がないのかを幾つかの推論を上げて考えてみました。
この記事の目次
推論1 そもそも、皇后という地位を置かなかった・・
皇帝・皇后という称号を私達は、セットだと思っていますが、それは、中央集権の王朝が成立した後の人間だからに過ぎません。始皇帝は、初めて皇帝を称した人物ですが、自分の正妃に、皇后という称号を与えようとは考えなかった可能性もあります。
実際、秦が七雄だった時代の後宮の制度を見てみると、、
王后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使と8段階に分れているので、始皇帝の正妃は、従来通り王后であり、皇后という称号は当初は置かなかった可能性もあるのです。
推論2 秦では妃の地位が低く史書に残さなかった
秦の歴代の王の記録を見ると、そこに妃についての記述が殆ど無いという事が分かります。つまり、秦では、妃については、記録に残すという考えがなく、その為に、皇后はいたが記録はしなかったとも考えられます。
ただ、秦の時代の資料は項羽(こうう)が咸陽に入った際に、殆ど焼き尽くしたというケースもあるので、こちらは、そこまで信憑性が高くないです。
推論3 母の不義密通が原因で女性不信だった?
始皇帝の母は、趙姫といい、趙の貧しい家の出身でした。ただ、容姿が美しいので踊り子として身を立てて暮らしていました。
それを大商人、呂不韋(りょふい)が見染めて愛人にして、その後、始皇帝の父である子楚(しそ)に求められて、与えたという記録があります。しかし、この趙姫は、かなり淫乱な女性であり、夫の死後は、性欲を持てあまし、かつて愛人だった呂不韋を後宮に呼びだして関係していたとされています。
ところが、老齢の呂不韋は、趙姫を満足させる事が難しく、また、先代の秦王の妻と関係している事が、ばれれば身の破滅になるので、嫪毐(ろうあい)という精力絶倫の男を宦官だと偽って後宮に入れ、自分の地位を守ろうとしました。
それを始皇帝は知り衝撃を受けて、女性不信に陥ったという可能性があるのです。
(女は子を産めばそれでよく、妾だけで構わないしことさら愛情など必要ないのだから、皇后など立てる必要もない)
始皇帝は、このように考え、皇后を置かなかったのかも知れません。
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推論4 自分と同様に皇后に諡号を付けさせなかった。
逆に、皇后はいたけれど、始皇帝が諡号をつけさせなかった、という可能性もあります。始皇帝は、王の死後に、臣下がつける諡号(しごう)を
「家来が主君を評価する怪しからん行為である」として、自らにつける事を許さず、自分の事は始皇帝と呼ばせ、以後は2世皇帝、3世皇帝と記録するように命じました。
この考えなら、もちろん、自分の正妃である皇后に諡号を送るのもタブーという事になるので、始皇帝の皇后には諡号がなく、名前も分らないまま、現在に至っているという事も考えられます。実際、始皇帝が後継者と目していた、扶蘇の母は楚の女性だという記録があり、本来、諡号が許されていれば、記録が残った可能性もあるのではないかとも思えます。
キングダムライターkawausoの独り言
実は、近年、始皇帝に関する資料が中国では大量に出土していて、史記に縛られた、残虐だが偉大な始皇帝というイメージは大きく良い意味で変化しつつあるようです。もちろん、キングダムを追い続けるはじさんでも、最新資料を逐一紹介して、新しい始皇帝像を皆様に、分りやすく解説しようと思います、請うご期待!!
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