221年〜222年にあったとされる「蜀」と「呉」による「夷陵の戦い」(いりょうのたたかい)では、
事前に劉備(りゅうび)の片腕とも言える、義兄弟の張飛(ちょうひ)が部下の裏切りで殺され、
劉備率いる「蜀漢」軍は惨敗し、多くの兵士が死んでしまいます。
この戦の後、間もなく、劉備も後を追うように亡くなります。
もし、この戦で、張飛が死なずに済んでいたら、戦局に変化はあったでしょうか?
大義のない戦
「夷陵の戦い」とは、大義名分が薄い、劉備と張飛にとっての、
先に亡くなった関羽(かんう)の弔い合戦そのものと見られています。
しかし、この当時、中国大陸では、天下では一大事が起きていました。
魏の曹操(そうそう)はこの戦の少し前に亡くなっていますが、
その息子の曹丕(そうひ)が、後漢王朝の献帝より、
皇帝の位を譲られ、魏の皇帝の地位にのし上がりました。
後漢王朝が事実上滅びたのです。
天下の長が、数百年ぶりに名実ともに交替したのです。
しかも大半の見方が、天下と奪われたと見ていた感が強かったのではないでしょうか。
義や忠義からは反する、非人道的行為だと、多くの武人たちが思っていたようです。
そのため、孔明含め、幾人もの劉備の家臣たちがその想いが強かったため、
仇討ちで「呉」?と対峙するよりも、魏への討伐を主張をしました。
さらに、相手の孫権側もそう考えていたようです。
そして、反魏漢忠、とも言うべき、
つまり、漢の王政復古を求めての連合軍を組織しようとしていた感がありました。
事実、さらに孫権側から事前に、劉備に和睦を申し込んでいるのです。
劉備軍(蜀漢)内部分裂が戦の前から起きていた!
この戦で、軍の士気は初めから乱れていたようです。
しかも、「三国志正史」では諸葛亮孔明(こうめい)が反対したという記述はありませんが、
この「夷陵の戦い」において、孔明は戦略の立案や執行には関わっていないのです。
張飛一人が生きていても、いくら、張飛が一騎でたとえ万の敵を蹴散らせても、
劉備軍全体の士気低下が事実であった様子でしたし、
特に張飛の部下に対する愛の鞭的なスパルタ指導は悪評だったらしく、
張飛が生きていたことで余計に離脱する者や裏切る者が続出し、
同じ顛末になった可能性が大いにあると考えます。
張飛も戦の中のどこかのタイミングで死なねばならない展開になったかもしれません。
おそらく、その方が絵になり、物語としては盛り上がるところであったでしょう。
「夷陵の戦い」が決定づけた、蜀漢王朝の未来
しかし、何万もの兵士たちの生命が、
一部の武人たちの義兄弟の契(ちぎり)を貫くための戦に
使い捨てにされたという負の記録が残ってしまったのです。
つまり、劉備と張飛の、君主や指導者としての評価を下げる結果となってしまうのです。
それは、この二人の最大の汚点であり、
「蜀漢」王朝の命運が尽きる大事件と言って良いのではないかと思います。
この「夷陵の戦い」があった当時、中国大陸では、魏、呉、蜀の三国の勢力の境界がほぼ確定し、
この三国が数十年に渡り相争う、事実上の三国時代に入ります。
しかし、劉備、張飛の失策と言ってよい「夷陵の戦い」で、すでに蜀漢 の滅亡は予想されていて、
魏と呉の二大勢力の争いの歴史の幕開けにしたと言って良いかもしれないですね。
もちろん、蜀には孔明が残っていたのですが、
その兄、諸葛瑾(しょかつきん)は孫権に従っていました。
その兄と同じく、孫権(呉)の勢力を後ろ盾にしたい気持ちが強かったようです。
同等というより、臣下の礼に近い姿勢であったと考えるべきでしょうから、
事実上の二大勢力争いを認めていたのでしょう。
三国志ライター コーノ・ヒロの独り言
「夷陵の戦い」の一連の経緯とその後の歴史を探ってみますと、
孔明はとても冷静に、今後の展望を見抜いていたと感じられ、孔明の偉大さを感じさせてくれます。
それで不思議に思うのは、孔明は、劉備の蜀漢王朝を見限らなかったということですね。
しかも、孔明の手腕で、その後の「蜀」の寿命を延ばしたようなものでしょうか。
劉備の死後、孔明は亡くなる約10年間、「蜀」に尽くし、孫権の「呉」と協力し、
「魏」と対決し、一進一退の攻防をしておりました。
孔明自身も、義に熱い人柄だったのでしょうか。
それとも漢王朝の末裔たる、劉備一族に皇位継承し、
社会の秩序を戻したいという使命が、彼の心をつなぎ留めたのでしょうか。
正史でも記述がありますが、孔明は軍師としてよりも、
政治家としての才能の方が強かったらしいです。
秩序を重んじ、社会を作ろうとする姿は、平和社会を生きる政治家向きだったのでしょう。
もしかしたら、劉備以上に皇位に向いていたのかもしれません。
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