400年の太平を貪る漢王朝、同じく400年以上も続いた日本の貴族政治。しかし、この両者は予想外の勢力によって徹底的に破壊され、その権力を失ってしまう事になります。
はじさんでは、この二つの勢力に終止符を打たせた、二人の英雄、董卓仲頴(とうたく・ちゅうえい)と源義仲(みなもとのよしなか)の共通点を探ってみましょう。
共通点1 どちらも軍閥で身分が低かった
董卓は、涼州で辺境の異民族の侵入を取り締まっていた武官でした。英雄記によれば、父は董君雅(とうがくん)、母は池陽君(ちようくん)と言われ名前は立派ですが大した地位があったわけではないようです。
董卓の預けられた総兵力は二十万とも言われますが、持ち場を勝手に離れる事は出来ない身分で一種の軍閥であり、大将軍何進(かしん)が招集を掛けなければ大手を振って洛陽に入城するのも不可能な低い身分でした。
源義仲は、河内源氏(かわち・げんじ)という源氏の一門でした。祖父は清和源氏の正統で源為義(みなもとのためよし)、父は源義賢(みなもとのよしかた)と言いますが、義賢は、弟の源義朝と東北の勢力を巡って抗争し義朝の子で、鎌倉悪源太(かまくらあくげんた)の異名を取った、源義平(みなもとの・よしひら)に敗れ戦死します。
生まれたばかりの義仲は、近臣に匿われ木曽(長野県)にいて木曽義仲とも言われましたが、嫡流を追われた田舎豪族で中央には何の影響力もありません。しかし、一族郎党を従えれば数千の手勢で地方軍閥です。
共通点2 皇帝、王族を庇護した事で運が開ける
董卓の運が開けたのは、大きな偶然でした。189年、何進の命令で、親宦官派の何皇太后に圧力を掛ける為に洛陽に呼ばれた董卓は、入城の直前に宦官に連れ去られた皇帝である少帝と劉協(りゅうきょう)を保護します。
洛陽でクーデターを起こし宦官勢力を皆殺しにしていた袁紹(えんしょう)達は、この少帝を抑える事で、権力を維持しようとしていましたが、董卓に皇帝の身柄を抑えられて動く事が出来なくなり、そこから董卓の暴政が始まります。
源義仲は、1180年、平家に虐げられていた以仁王(もちひとおう)が令旨(りょうじ)を発して平家追討の命を全国に発した時にこれに応えて挙兵し3000騎を集めてすぐに南下を開始しました。
時代は平家の棟梁、平清盛(たいらのきよもり)が源氏を平治の乱で追い落として天皇の外戚となり我が世の春を謳歌、独裁政治をしている時で、日本には平家憎しの声が充満していたのです。
1182年、同士討ちを避ける為に、慎重に源氏の勢力の及んでいない土地に支配力を伸ばす義仲に幸運が舞い込みます。挙兵して戦死した以仁王の第一王子の北陸宮(ほくろくみや)を保護する事に成功したのです。政治的なバックがなく悩んでいた義仲はこれを喜び、越中国宮崎に御所を造ってしまう程でした。
その後、義仲は因縁の仲、源頼朝(みなもとの・よりとも)(義仲の父を殺した義朝の子)に人質を送る事で和議を結び一方では、10万の大軍を擁する平家の平維盛(たいらのこれもり)の兵力を倶利伽羅(くりから)峠で撃破、さらに押し寄せる平家の追討軍を撃破します。
形成不利を悟った平家は一度、京都を放棄して西国へ脱出、平家に幽閉されていた後白河(ごしらかわ)法皇は、義仲を官軍として認めたので、義仲は京都に入城し、解放軍、朝日(あさひ)将軍と美称されました。
暴政が仇になり、滅びる事になる両者・・
董卓は後漢皇帝を擁して、最初は大人しめの政治をしましたが、それでは、周囲が自分に従わないと知ると、暴力政治に転換します。独断で、才能がないと断じた少帝を下ろして弘農王に降格させ毒殺、弟の陳留王を即位させてしまい、自分は大師(たいし)として政治を動かすのです。
その暴虐は筆舌に尽くしがたく、何でもやりたい放題で、気に入らないやつは誰でも殺してしまうという凄まじさでした。もちろん、こんな事が長続きする筈もなく、最後には腹心の呂布に裏切られ暗殺されてしまいます。董卓の栄耀栄華は、たった3年で終止符を打ってしまうのです。
源義仲も、都に入ったものの、都のしきたりを知らない田舎武士である事が災いし、どんどん周囲から浮いてゆきます。その第一が、義仲が担いできた北陸宮を天皇にしてくれという要請でした。北陸宮は、皇族とは言え、直系とは遠い人物でした。それを直系の皇子を差し置いて天皇にするなど、当時の常識ではあり得ず、また皇位継承に武士如きが口を出す事で、後白河法皇や貴族達を不快にさせます。
さらに悪い事には、当時、西日本一帯が養和(ようわ)の大飢饉という深刻な食糧不足でした。記録によると京都での餓死者は42300人で、道の至るところで死体が転がり腐臭を発しても、あまりの数の多さに埋葬が間にあわない状態だったようです。
しかも京都には、義仲が連れてきた大勢の源氏の武士がいました。彼等は食う為に、都やその周辺で略奪を働きます。朝廷は義仲に、部下の乱暴狼藉を止めるように命じますが、義仲の兵は各地の寄せ集めなので、命令は徹底しませんでした。
「武士たるものには馬が必要で、飼葉の為に青田も刈ります。兵糧が足りないから自分で調達するだけで、天皇や貴族の屋敷から奪っているわけでもないのに、なんで怒られないといかんのです!」と義仲は逆切れしてしまったと言われます。
この義仲の傍若無人な振る舞いは、京都の人々の支持を失わせました。焦った義仲は、源頼朝に通じた後白河法皇の屋敷を襲い、これを幽閉して勢力を維持しようとしますが強引な手法に味方についていた武士達も離れ、最後には僅かな手勢で源義経(みなもとのよしつね)・範頼(のりより)の軍勢と戦い敗走して戦死してしまうのです。
義仲が都を抑えて頂点にいたのは、たった60日に過ぎませんでした。
三国志ライターkawausoの独り言
董卓も源義仲も、武力には秀でていますが、政治能力は低いという共通点があります。両者とも低い身分であり、都の政治をよく知らず、その為に、不信感を持たれ、最後にはやけになったように暴力政治に打って出て、自滅する形になっています。
しかし、董卓の横暴のせいで、後漢にはトドメが差され、群雄割拠の時代が到来し、義仲が都を落ちた後、源頼朝は、政治を鎌倉に移して、貴族と距離を取るなど、武家の政治を確立します。義仲を最後に貴族に政治の実権が戻る事は、建武の新政の一時期を除けば無く、以後650年に渡る武士の政治の幕が開きます。
両者は新しい時代を開く、露払いの役割を受けたのではないか?そのようにkawausoは思います。
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