漢王朝を開いた高祖・劉邦(りゅうほう)。
彼がいなければ「漢民族」と言われる呼称もなく、三国志の時代は生まれなかったでしょう。
そして彼が敬愛していた人物が春秋戦国時代にいたのをご存知でしたか。
彼は魏の信陵君(しんりょうくん)が大好きで、信陵君みたいになりたいと若い頃思っていたそうです。
今回はこの魏の信陵君を歴史家・司馬遷(しばせん)が書いた史記から覗いてみたいと思います。
この記事の目次
魏の公子・信陵君の誕生
魏の昭王の息子達に無忌(むき)と言われる子どもが誕生します。
彼は魏姫(ぎき)と言われる人物と兄弟で、非常に仲がよく幼少期は一緒に遊んでおりました。
昭王が亡くなると魏姫は王に就任することになり安釐王(あんきおう)と言われることになります。
安釐王は弟である無忌に信陵と言われる土地を与えます。
無忌は王からもらった土地である信陵の名前を自らに冠して、信陵君と名乗ることにします。
こうして戦国の四君と呼ばれることになる信陵君が誕生することになります。
魏は最大の危機に瀕していた
魏は魏姫が王になった頃最大の危機を迎えておりました。
その原因は先代の魏王が范雎(はんしょ)を虐げた事がきっかけです。
范雎は魏王の家臣にボコられて死ぬ寸前まで追い詰められますが友人に助けられた後、
秦へ逃げて宰相として君臨します。
彼は魏の国が自分を虐げた恨みを晴らすために秦の大軍を出陣させて、
魏の首都大梁(たいりょう)を包囲します。
この危機は安釐王が領地を割いて和睦にこぎつけた事で、
何とか滅亡の危機を回避することができました。
しかし信陵君はいつまた秦軍が大軍を用いて攻撃してくるかわからない状況に、
危機感を募らせておりました。
有能な人材を集める
信陵君は魏がいつ秦から攻撃を受けて危機的状況に陥るかわからないので、
優秀な人材を各国から集めます。
彼は士人に対して謙虚な態度で接します。
例え出来の悪い人物であろうといつどこで役に立つか分からないので、
誰に対しても公平に接していきます。
この人柄を知った諸国の人材はこぞって信陵君の元へやってきます。
こうして信陵君の元に三千人の人材が集まってくることになり、
この全てを自らの領地で食客として養っていきます。
どのような食客がいたのか
信陵君の食客には色々な人材が豊富にいました。
ある日安釐王と一緒に信陵君はすごろくをして遊んでおりました。
すると息せき切った文官が安釐王へ「北の国境から狼煙が上がっております。
趙軍が攻めて来る模様です。」と急を知らせてきます。
この知らせを聞いた王はすぐに軍議を開くように要請を出そうとします。
すると信陵君は「王よ。この狼煙は攻めて来る狼煙ではありません。
趙王は狩りを行っているそうです。」と述べます。
すると王は「おいおい。馬鹿な事言っちゃいけない。
趙が国境へ迫って来る理由は魏に攻撃を仕掛けてくる以外にあるまい」と答えます。
だが信陵君は落ち着き払って「私の食客に趙王の動向を知らせてくる者がおります。
彼からもたらされた情報ですから間違えないでしょう。」と断言。
その後趙軍は魏へ攻撃を仕掛けることなく領地へ引き返して言ったそうです。
このように各地の王の動向を知る者や地勢に詳しい者、軍略に特化している者など
多くの人材が信陵君の元へ集まってきておりました。
しかし安釐王は信陵君のこの言葉を聞いて大いに恐れ、
彼を魏の国政に参加させることはしませんでした。
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