董允(とういん)が宮中に入っている間、蜀の滅亡の原因を作り出した黄晧(こうこう)。好き勝手なことができずにおりました。そのおかげで蜀は政治的に安定しておりました。そんな蜀の重きをなした董允の父親でもある董和(とうわ/とうか)とは一体どんな人なのでしょうか。
戦乱を避けて益州へ避難
董允の父親である董和(とうか)は戦乱である後漢末期の中原を避けて、家族を連れて益州へ避難します。益州へ到着して数日を過ごすと益州の支配者である劉璋(りゅうしょう)から招かれて、県長の職を与えられます。彼は劉璋からもらった役職を拝命し、早速仕事へ出かけます。
民衆は豪華な暮らしを行う
後漢王朝が乱れて間もないころ戦乱が少なかった蜀は民衆もかなりの余裕があり、財産もかなりの物を持っておりました。そのため彼らは豪華な服を身にまとい、豪勢な食事を行っておりました。董和が赴いた先の県もこのような民衆が数多くいたため、彼はまず民衆に豪華な生活を捨てさせて規律ある生活を行わせるために質素倹約に努めていき、豪華な生活を民衆が送っていくことを禁止する県令を敷きます。この結果民衆は彼が率先して質素倹約に努めていた事で、彼らも豪華な生活を捨てて質素倹約に努めていくことにします。
豪族から不満が出る
劉璋に従っていた豪族は董和が行った政策を嫌っておりました。そのため劉璋へ「新しく県令になった董和の政策をやめさせるように言ってくれないか。」と進言を行います。劉璋は豪族達の意見を聞いて董和jへ政策をやめるように命令を下そうとしますが、彼が赴いている県の住民や彼に仕える小役人が連名して董和の解任に反対したため、この命令は通達されることはありませんでした。こうして董和は益州の各県の県令を歴任し、実績を上げていくと劉璋は彼の功績を認めて益州の太守へ昇進させることにします。
大勢の部族がいた益州南部
益州の南部は大量の部族が混在しており、彼らといざこざを起こさずに統治するのは非常に難しいとされておりました。しかし董和は益州や益州近辺に居る異民族へ持ち前の清廉さと誠意をもって接することで、異民族も彼と次第に仲良くなっていき、協力関係の構築に成功します。こうしてこの難しい益州の統治を見事にやってのけることに成功します。
孔明から認められる
劉備は益州を自らの領地に加えると董和を優遇し、孔明と共に政権に参画させることにします。この時孔明と政策について議論を重ねていきます。その結果気心知れる仲となり、仕事上においても円滑なコミュニケーションを築きます。董和は政権にとって有益なものを積極的に進めていき、無駄な物を廃していくことで円滑な政権運営を目指していきます。こうして蜀の政権に居なくてはならない人物へと成長するのですが、彼は病にかかって亡くなってしまいますが、彼が亡くなった時家には一切蓄財などがなかったそうです。
孔明は高く評価を下す
孔明は劉備の死後丞相となると側近達へ「仕事において自分と反対の意見を言うものを徴用しなくてはならない。なぜならば自らの過ちを指摘してくれるからだ。そしてその指摘を改善することで完璧な仕事ができるようになるのであるが、董和はしっかりと私の間違っている箇所を指摘してくれるため、大いに助かっていた」と董和を非常に高く評価しておりました。
三国志ライター黒田廉独り言
董和は誠実でいうべきことははっきりと言うことで孔明から認められることになります。また実施しようとする物事は率先して自らが行うことで、周りに誠意を見せて納得させることで円滑に政策が進んでいきます。このような人物は政策を命じるほうも反発が少なくて実行できるため非常に貴重な人材ではないのでしょうか。
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