三国時代でも君主の片腕として活躍した人物は多くおりました。諸葛孔明などはその代表格と言っても過言ではないでしょう。古代中国にも諸葛孔明のような君主を補佐したNo.2が多く出現します。代表的な人物といえば斉の管仲(かんちゅう)や衛の子産(しさん)が有名ではないでしょうか。しかし今回は周王朝の初期を支えた人物である武王の弟である周公旦(しゅうこうたん)をご紹介したいと思います。
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この記事の目次
孔子も尊敬したNo.2
周公旦は文王である姫昌(きしょう)の息子として誕生します。彼は成人すると父と兄を助けて各地の諸侯の争いの仲介役や異民族討伐戦でも大いに活躍します。儒教の大家として知られる孔子(こうし)は「彼は私心を一切持たないで、補佐役に徹しているのはすごいことだ。」と高評価を与えるとともに、彼を尊敬しておりました。
殷討伐線で活躍
殷王朝の王である紂王(ちゅうおう)の暴虐な政治に我慢できなくなっていた民衆や諸侯は、周公旦の父である姫昌を頼ってきます。彼は諸侯から頼られるほどの実力を持っておりましたが、生きている間に殷王朝討伐を行いませんでした。
そして姫昌が亡くなると息子である発が跡を継ぎます。彼は殷王朝を打倒する兵を挙げて殷王朝の首都である朝歌(ちょうか)へ向けて進軍を開始。紂王も周軍を向かえ打つために牧野と言われる地に駐屯し、防備を固めます。こうして両軍は牧野の地で決戦を開始。殷軍は70万も兵を集めており、圧倒的兵数でもって周軍に攻撃を仕掛けていきます。周公旦がいる周軍は40万ほどの兵数しかいませんでした。
しかし発は周軍に突撃を命じて決戦が始まります。周公旦は殷軍に攻撃を仕掛け、自ら剣を奮って懸命に闘っていきます。その結果、殷軍は崩壊し紂王は逃亡。こうして周軍が勝利を収め、殷王朝の首都である朝歌の占領に成功します。周公旦はこの時の活躍により魯公になるのですが、周王朝が成立したばかりで任地へ赴くことをせずに中央にとどまって政策を行っていきます。
武王が病に倒れる
殷王朝を滅亡させた周王朝ですが、いきなり大変な事件が発生。その事件は武王が病に倒れて危篤状態に陥ってしまいます。この事態に天才軍師として名高い太公望・呂尚(りょしょう)や召公奭(しょうこうせき)は、狼狽えてしまいます。
彼らは占い師に「武王様の病気が治るのかどうか占ってくれ」と要請します。しかし周公旦は「ご先祖様達に迷惑をかけてはならない」と言い占いをやめさせます。そして彼は自ら祭壇へ登って祭文を先祖の霊に捧げます。
さらに彼はこの祭文を箱に入れて厳重に保管してから箱の番人に「祭文の内容は一切誰にも言うな」と厳命します。周公旦の祈りが武王に通じたのか次の日武王の病は全快になり、何事もなかったように仕事を行っていきます。しかしその後再び病にかかってしまい、武王は病に勝てずに亡くなってしまいます。
幼い君主を二人で支える
武王が亡くなるとかれの息子である成を王に立てます。周公旦は王があまりにも幼いため、このままでは国が混乱してしまうと考えて、自らともうひとり周建国の功臣である召公奭と共に政治を支えていきます。このふたりの活躍によって建国間もない周王朝は大きな混乱を招かずに安定した状態を迎えることができたのです。こうした周公旦の活躍に嫉妬していた武王の弟達はある計画を立てます。
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