小国燕国の王である昭王に仕えた楽毅(がくき)。
彼は昭王の積年の夢である斉へ復讐を叶えるため、色々と工作を行います。
その結果、彼は斉と楚を除いた国々と連合軍を結成することに成功。
この軍勢の総大将として楽毅は兵を率いて斉へ攻撃を仕掛け、
斉を滅亡寸前にまで追い込みます。
しかし楽毅の良き理解者であった昭王が亡くなると次の恵王(けいおう)のせいで、
楽毅は燕の地を離れて、趙へと向かい彼の地で仕官することになりますが、
趙へ仕えた時の楽毅の名言を今回はご紹介しましょう。
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総司令官を更迭!?
楽毅は斉へ攻め込み、斉のほとんどの領土を占領することに成功。
しかし即墨(そくぼく)と莒(きょ)の二城のみが未だ楽毅に抵抗しておりました。
彼は即墨へは配下の者を使わして包囲させ、莒には楽毅自ら攻撃を仕掛けます。
しかし楽毅の猛攻を受けても斉王がこもっている莒を陥落させることはできず、
即墨も斉軍が燕の大軍を弾き返す奮闘ぶりを見せます。
そんな中、燕では昭王が亡くなり恵王が燕の王様となります。
彼は楽毅の事をあまり好きではなく、むしろ嫌っておりました。
そのことを知った即墨の守将である田単は、燕の首都で楽毅の悪口を流します。
この作戦は成功し、田単が流した流言を信じた恵王は楽毅へ
「総司令官の職を別の将軍にする。お前は早く帰ってこい」と命令を出します。
この命令を聞いた楽毅は恵王に自分は疑われていると考え、
燕の首都へ向かうことをせずに燕の隣国である趙へ亡命してしまいます。
楽毅に謝る
楽毅はこうして燕を出て趙へ亡命し、趙王の元に仕えることになります。
燕ではその頃、楽毅から別の将軍へと総司令官が変わり、
斉の残りの二城へ猛攻を開始しておりました。
田単は自らの計略によって楽毅が居なくなったことを知り、大喜びします。
そして燕軍が即墨へ猛攻をしかけてくる事を知ると彼は反撃を開始。
燕軍は即僕で田単が考えた火牛の計を受けて大敗北。
田単は燕軍を追撃して斉の国から燕軍をすべて追い払い、斉の国を取り戻すことに成功します。
この結果、恵王は田単の計略に引っかかった事を敗北後に知って大いにショックを受けます。
さらに彼は自分が計略に引っかかったことが原因で楽毅を追い出してしまったことで、
彼が趙王をけしかけて燕に攻撃を仕掛けてくるのではないかと不安に駆られます。
そこで恵王は楽毅に「あなたを疑って申し訳なかった。あの時は斉の宰相となっている田単の
計略に皆が引っかかってしまったのだ。」と自らの非を認め、謝ります。
楽毅は恵王の手紙を読んで彼に返信を出すことにします。
「古の君子は交わりを断つとも悪声を出さず」BY楽毅
楽毅は恵王へ先代昭王から受けた恩に対しての説明を行ってから
呉の名臣である伍子胥(ごししょ)と呉王・闔廬の話を引き合いに出します。
そしてこの手紙の最後に彼は「古の君子は交わりを断つとも悪声を出さず」と書き記します。
彼が記したこの言葉の意味は「昔の君主は絶好したとしても、悪口は言いませんでした。
私も古の君子の教えを胸に刻んで起きておりますので、
過去起きたことに対して悪口を言うつもりは毛頭ありません。」と言う意味です。
この楽毅の言葉を受け取った恵王は、楽毅の懐の大きさを知り感動します。
そして彼は楽毅の息子である楽間(がくかん)を取り立てたそうです。
春秋戦国ライター黒田廉の独り言
楽毅が恵王へ送ったこの書を「燕の恵王に報ずる書」と言われ、
三国時代の蜀の丞相である諸葛孔明が書いた「出師の表」と
並ぶ名文として讃えられることになります。
また楽毅と孔明が書いた書物を読んで泣かないものは不忠の臣と言われ、
広く伝わることになります。
「今回の春秋戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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