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【シミルボン】三国志の真実、劉備が孔明に飛び付いた理由はこれだ!

2016年12月8日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」専用コンテンツです。

 

三顧の礼 ゆるキャラ 孔明

 

理想的な君臣の出会いと評される、劉備(りゅうび)

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の三顧の礼の逸話。

天才的な才能を持つ、若い軍師と、知名度はあるけど、補佐に恵まれない

将軍の出会いは三国志の名シーンです。

しかし、孔明の神算鬼謀は、残念ながら三国志演義の演出でしかありません。

そうであれば、山奥に引きこもる、孔明のどこに劉備は惹かれたのでしょう?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志演義を排除して見えてくる劉備の深慮遠謀

徐庶と出会う劉備

 

三国志演義の視点に立つと、劉備が孔明を得ようとした理由は

とても簡単で、ハッキリしています。

曹仁(そうじん)夏侯惇(かこうとん)の軍勢を計略で瞬殺した

徐庶(じょしょ)が劉備の元を去る時に、

「自分よりも凄い天才軍師がいるから安心して」と

友人である孔明を紹介したからです。

 

つまり、孔明さえ得れば、曹操(そうそう)なんか余裕で瞬殺だから、

劉備は、孔明をスカウトするんだな、と読者は誰でも分かります。

孔明は演義においては、リーサルウェポンだからです。

 

孔明

 

しかし、現実の孔明は、演義のような派手な戦勝を重ねたりはしません。

ならば、どうして劉備は、わざわざ自ら、隆中(りゅうちゅう)の山奥に

自分より20歳は年下の孔明を三度も尋ねるという面倒臭い事をしたのでしょうか?

 

ただのニートでは無かった、孔明の背後の華麗なる人脈

諸葛均 孔明の弟 ゆるキャラ

 

孔明は、隆中(りゅうちゅう)で田畑を耕して晴耕雨読する事、

17歳から27歳までの10年の長きに及びました。

 

いかにも、長閑な隠居生活に思えますが、トラクターも何もない古代です。

弟の諸葛均(しょかつ・きん)と、何名かの下僕程度で、

余暇に本を読める悠々自適な生活なんか出来たのでしょうか?

 

10年の間には、豊作も不作もあったと思いますし、

孔明が本当に農業だけで、自活できたか疑問なのです。

そこで、調べてみると孔明を中心に連なる、

驚くべき華麗な人脈が浮かんできます。

 

孔明の嫁、妹、着々と築かれる人脈

諸葛瑾

 

孔明の父は、諸葛珪(しょかつ・けい)といい、章氏という妻との間に、

諸葛瑾(しょかつ・きん)、亮、均、そして、娘を儲けたとされています。

父の珪は、元々は、荊州の人間ではなく、琅邪(ろうや)国の隣の太山郡の丞でした。

丞(じょう)は郡太守の補佐ですが、都には遠く、お世辞にも高い地位とは言えません。

 

諸葛珪は、寿命には恵まれず、孔明が幼い頃に死去し、

以後、孔明は、その頃の習わしに従い、叔父の諸葛玄(しょかつ・げん)に率いられて、

太山郡から、陽都(ようと)、陽都から、南昌(なんしょう)と南下していきます。

そして、最後に落ち着いたのが、荊州の襄陽(じょうよう)でした。

 

因みに孔明より7歳年長の諸葛瑾は、

諸葛玄の元から離れて自立し別行動を取っています。

 

ここで、落ち着いた孔明は、ようやく好きな勉学に力を入れますが、

孔明17歳の時に、一族を庇護(ひご)してくれた諸葛玄も亡くなります。

病死説も戦死説もありますが、本筋に関係ないので詳しく触れません。

 

しかし、玄の遺産は残されていたので、孔明や、均(きん)は、

すぐに喰うに困るというような事はありませんでした。

 

さらに諸葛玄は、さりげなく孔明の今後を案じて、手を打っていました。

孔明の姉(或いは妹)を襄陽の名士、龐徳公(ほうとくこう)の息子の

龐山民(ほうさんみん)に嫁がせました。

 

龐家は資産家でしたので、孔明には、姉(或いは妹)の援助も期待でき、

贅沢が出来る身分ではありませんが、喰うに困る事は無かったのです。

 

シミルボン

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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