政治と権力を握るための革命(クーデター)には大義名分が必要です。
西暦189年のクーデターを振り返ってみましょう。
霊帝が崩御したタイミングで何進や袁紹は、権力を握っていた宦官たちの一掃を計画します。
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この記事の目次
三国志のクーデター 宦官一掃
このようにクーデターには暴力が必要になります。
何進は逆襲にあって殺されましたが、袁紹や袁術は宮中になだれ込んで宦官を大勢殺戮しました。
これにより宦官専横の政治は消滅しましたが、
代わりに呼び寄せられた群雄のひとりである董卓が少帝を保護し、そのまま政のトップに躍り出ます。
筋書き通りにはいかなかったものの、このクーデター自体は成功といえるでしょう。
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三国志のクーデター 打倒曹操
皇帝を傀儡と化して権力を握った曹操に対するクーデターや反乱は度々発生しています。
漢皇室をないがしろにし、政治を独占する曹操を倒すことには大義がありました。
西暦219年には、蜀の関羽が魏領に攻め込んだのに呼応して、
鄴で魏風がクーデターを起こしました。
魏風に賛同するものは多く、有力政治家の子息が多数このクーデターに参加しています。
こちらは密告にあって主要メンバーは即刻誅殺されています。
クーデターは失敗に終わったのです。
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三国志のクーデター 打倒曹氏
曹操が生きている間は隙をみせずに反乱のことごとくを返り討ちにしていますが、
曹操亡き後は少しずつ状況が変わってきました。
西暦249年、魏の皇帝は曹芳(そうほう)でしたが、帝位についたのはわずか八歳のときでした。
後見役に選ばれたのが曹氏の代表として曹爽、官僚の代表として司馬懿です。
このとき曹芳は充分に大人になっています。
即位して10年以上が過ぎていたからです。
状況は即位の頃と大きく違います。
後見人である曹爽は自分の派閥だけで政治を取り仕切るようになり、
司馬懿は閑職の太傅に祭り上げられて政治の中心から遠ざけられていました。
曹芳と曹爽が猟に出て留守になった隙に司馬懿は迅速に動きクーデターを起こします。
城門をすべて閉じ、皇太后を押さえ、曹爽の罪を上奏します。
降参した曹爽らのグループはその後に処刑されています。
クーデターは成功に終わったのです。司馬懿は曹氏に替わって政治と権力を一手に握ります。
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クーデターに必要なもの
このようにクーデターを成功させるためにはポイントがあります。
1.誰がクーデターを起こすのか
2.大義名分は何か
3.クーデターを起こすタイミング
4.倒すべき相手の力量
仮に陸遜が呉でクーデターを起こしたとします。
実績充分な陸遜ですからポイント1は充分に満たしています。
荊州という都から離れた地にいるものの、位は丞相です。申し分はありません。
しかし、ポイント2の大義名分はあるでしょうか?
皇帝である孫権は民衆から見限られるような失政を犯していません。
そうなると陸遜に賛同するものはほとんどいない状態になります。
単なるいち反乱で終了します。
陸遜は呉でクーデターを起こすことはできたのか?
しかしポイント3を考えると、クーデターを起こすタイミングがまったくなかったわけではありません。
これはポイント4にも関係する話ですが、孫権は晩年に太子の問題で多くの臣の不信を買います。
考えられるタイミングは、西暦250年。孫権が太子である孫和を廃し、
弟の孫覇を死に追いやったときになります。孫権も老いて判断が曖昧になり、往年の力はありません。
陸遜が持ち味をいかして用意周到に準備していけばクーデターは成功できたかもしれないのです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
陸遜が太子である孫和(そんか)を擁護し、
孫権を倒すシナリオはあくまでも仮想のものです。
忠義の士である陸遜が主に逆らうはずがないからです。
そのような野望や野心がない部分こそ陸遜の大きな魅力です。
結論として陸遜のクーデターは可能ではあったが、
そのような事態になることは決してなかったと私は思います。
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