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忠義の士・陸遜に迫る!陸遜は呉でクーデターを起こすことはできたの?

2017年1月6日


 

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顔良と袁紹

 

政治と権力を握るための革命(クーデター)には大義名分が必要です。

西暦189年のクーデターを振り返ってみましょう。

霊帝が崩御したタイミングで何進や袁紹は、権力を握っていた宦官たちの一掃を計画します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志のクーデター 宦官一掃

宦官

 

このようにクーデターには暴力が必要になります。

何進は逆襲にあって殺されましたが、袁紹や袁術は宮中になだれ込んで宦官を大勢殺戮しました。

これにより宦官専横の政治は消滅しましたが、

代わりに呼び寄せられた群雄のひとりである董卓が少帝を保護し、そのまま政のトップに躍り出ます。

筋書き通りにはいかなかったものの、このクーデター自体は成功といえるでしょう。

 

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三国志のクーデター 打倒曹操

曹操 機密保持

 

皇帝を傀儡と化して権力を握った曹操に対するクーデターや反乱は度々発生しています。

漢皇室をないがしろにし、政治を独占する曹操を倒すことには大義がありました。

西暦219年には、蜀の関羽が魏領に攻め込んだのに呼応して、

鄴で魏風がクーデターを起こしました。

魏風に賛同するものは多く、有力政治家の子息が多数このクーデターに参加しています。

こちらは密告にあって主要メンバーは即刻誅殺されています。

クーデターは失敗に終わったのです。

 

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三国志のクーデター 打倒曹氏

曹操頭痛

 

曹操が生きている間は隙をみせずに反乱のことごとくを返り討ちにしていますが、

曹操亡き後は少しずつ状況が変わってきました。

西暦249年、魏の皇帝は曹芳(そうほう)でしたが、帝位についたのはわずか八歳のときでした。

後見役に選ばれたのが曹氏の代表として曹爽、官僚の代表として司馬懿です。

このとき曹芳は充分に大人になっています。

即位して10年以上が過ぎていたからです。

状況は即位の頃と大きく違います。

後見人である曹爽は自分の派閥だけで政治を取り仕切るようになり、

司馬懿は閑職の太傅に祭り上げられて政治の中心から遠ざけられていました。

曹芳と曹爽が猟に出て留守になった隙に司馬懿は迅速に動きクーデターを起こします。

城門をすべて閉じ、皇太后を押さえ、曹爽の罪を上奏します。

降参した曹爽らのグループはその後に処刑されています。

クーデターは成功に終わったのです。司馬懿は曹氏に替わって政治と権力を一手に握ります。

 

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クーデターに必要なもの

陸遜

 

このようにクーデターを成功させるためにはポイントがあります。

 

1.誰がクーデターを起こすのか

2.大義名分は何か

3.クーデターを起こすタイミング

4.倒すべき相手の力量

 

仮に陸遜が呉でクーデターを起こしたとします。

実績充分な陸遜ですからポイント1は充分に満たしています。

荊州という都から離れた地にいるものの、位は丞相です。申し分はありません。

しかし、ポイント2の大義名分はあるでしょうか?

皇帝である孫権は民衆から見限られるような失政を犯していません。

そうなると陸遜に賛同するものはほとんどいない状態になります。

単なるいち反乱で終了します。

 

陸遜は呉でクーデターを起こすことはできたのか?

朱然と陸遜

 

しかしポイント3を考えると、クーデターを起こすタイミングがまったくなかったわけではありません。

これはポイント4にも関係する話ですが、孫権は晩年に太子の問題で多くの臣の不信を買います。

考えられるタイミングは、西暦250年。孫権が太子である孫和を廃し、

弟の孫覇を死に追いやったときになります。孫権も老いて判断が曖昧になり、往年の力はありません。

陸遜が持ち味をいかして用意周到に準備していけばクーデターは成功できたかもしれないのです。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

はじめてのプロ野球2-01 ろひもと理穂さん

 

陸遜が太子である孫和(そんか)を擁護し、

孫権を倒すシナリオはあくまでも仮想のものです。

忠義の士である陸遜が主に逆らうはずがないからです。

そのような野望や野心がない部分こそ陸遜の大きな魅力です。

結論として陸遜のクーデターは可能ではあったが、

そのような事態になることは決してなかったと私は思います。

 

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陸遜特集

 

 

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