甲斐の虎と言われた武田信玄。彼は領地を拡大するときに必ずと言っていいほど調略を施して武田側に着く諸豪族を増やしてから戦を行って勝利を得ております。信玄の調略は領土の加増や領土保全を約束して味方に誘う方式をとっており、他にも武田で産出された金を使って武将を寝返らせる方法をとっておりました。
当時の武田家は金山をたくさん保有しており、ガツガツ掘っていっぱい金を産出している状態で、ゴールドラッシュと言っていい状態でした。今回はこのゴールドラッシュ状態の武田家をご紹介していきたいと思います。
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甲斐・武田家に存在していた金山とは?
甲斐武田家が金山開発を行ったのは信玄の父である信虎(のぶとら)からです。しかし信虎の時代はまだ金山発掘の技術が発達していなかったためあまり金を採掘することができませんでした。本格的に金山開発を始めたのは信玄の時代からで、当時の甲斐・武田家には多くの金山がありました。代表的なものでも9個も金山を保有しており、多くの金を産出しておりました。
武田家の金山採掘法とは
武田家は多くの金山を保有しておりましたが、ただ保有しているだけでは金を生むことはできません。金を採掘するには金山に入って採掘しなくてはなりません。武田家では金山を掘る特別部隊が編成され、金堀衆と呼ばれておりました。彼は金山に入ると山を掘りながら金を採掘してもって帰ってきます。その後金山衆が持ち帰ってきた金を灰吹金といわれる精錬法をもって碁石のような金にして流通させていたそうです。この金山衆達が持ち帰ってきた金を製造した碁石のような金を甲州金と言われるようになります。
ついでにこの金は純金度が非常に高く、秀吉が天下統一後に製造した天正小判と言われるものよりも純度のいい金だったそうです。
採掘された金は一体何に使っていたの
こうして採掘して製造された金は一体何に使っていたのでしょうか。多くは武田家が中央政府(主に幕府や朝廷)に対して献上するための金として用いていたようです。また領土内に点在している寺社等に寄進するために使っていたようです。このように朝廷や幕府、寺社等に寄進することにでいざって時に協力するように要請することができます。また幕府や朝廷には官位や戦の和睦等の仲介役として要請することもできたでしょう。このような用途のほかに武田家が武将や諸豪族を味方に引き入れるときにも使われていたのでしょう。
さらに戦国時代に到来した新兵器である鉄砲の購入にも非常に役に立っています。鉄砲は当時非常に高価で鉄砲だけでもとんでもない金額でした。そして鉄砲を発射する玉薬などは日本で生産することはほとんど不可能であったこと(北陸地方の本願寺の門徒宗は奇跡的に鉄砲の弾薬を自前で生産することができていた)が原因で、海外から輸入するしかなく鉄砲本体よりも高く、とんでもない値段がつけられます。
しかしゴールドラッシュに突入していた武田家は甲州金などで楽々と買うことができたそうです。これらの他にも刀や槍、馬などを購入する際にも買っており貨幣経済が正式に成立していない戦国時代でも武田が生産した金は非常に効果的な役割を果たしており、武田家の経済を支えておりました。
戦国史ライター黒田廉の独り言
信玄時代にはゴールドラッシュと言っていいほどの金が産出されていたので、金に困ることなくいろいろなところに多くの金をばら撒いておりました。しかし信玄の死後、武田勝頼(たけだかつより)の時代になると一気に生産量が低下。そのため勝頼は経済面でも非常に苦労しなくてはならない状態になってしまいます。
参考文献 信玄の戦略 柴辻俊六著など
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