孫策の独立理由に疑問!袁術は孫策に対して本当にケチだったの?

2017年1月11日


 

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袁術と孫策

 

孫策(そんさく)袁術(えんじゅつ)の元を離れた原因には、

一には袁術の皇帝僭称(せんしょう)、そして、二には袁術が孫策に約束した

九江(きゅうこう)大守や廬江(ろこう)大守を反故にした事が挙げられます。

それで、ガッカリしてしまった孫策が袁術を見限って自立するのが定番の

あらすじなのですが、果たして、袁術は言われる程のケチなのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫策だけで見てはいけない袁術の豪快な孫堅一本釣り

袁術

 

孫策だけの起用を見ると、袁術は、大変にケチで身内ばかりを贔屓する

器の小さい人に見えますが、これは視点が狭いというものです。

例えば、孫堅(そんけん)を見ると、南陽太守の張咨(ちょうし)を斬って

魯陽(ろよう)に到達した孫堅と会見するや、袁術は、気前よく

彼を破虜(はりょ)将軍、豫州(よしゅう)刺史に任命します。

 

孫堅が張咨を斬ってくれたおかげで南陽太守になれる袁術ですが、

戦歴抜群とはいえ、出自は、どことも知れない寒門の武将に対して、

なかなか太っ腹な任命です。

 

孫堅の家族を舒の周家に預ける精神面のケア

孫堅

 

孫堅は、西暦172年頃から、義勇軍の長として各地を転戦していました。

出身は富春ですが、弟の孫静(そんせい)とは確執があったのか家族は預けていません。

そこで、袁術は舒(じょ)の周家に孫堅の家族の面倒を見るように依頼します。

周家と袁家は、百年来の付き合いがあり、袁術は金の卵である孫堅の

家族の世話を念入りに頼んだと見えます。

 

そうでなければ、三公を出した名門の周家が、寒門の孫家に

家を一軒丸々貸すような付き合いはしないでしょう。

そして、ここで少年、孫策と周瑜(しゅうゆ)は運命の出会いを

果たすのですから、袁術の精神面のケアは行き届いたものだと言えます。

 

孫堅を継いだ孫賁には、征虜将軍を与えている

孫堅と董卓

 

孫堅が董卓(とうたく)と交戦中、袁術は部下に善からぬ事を吹きこまれ、

一時期、孫堅への補給を止めるなど危ない時もありましたが、

その後は孫堅の直談判を受けて、仲直りしていました。

 

使える金の卵だった孫堅ですが、西暦191年に劉表(りゅうひょう)を攻めて

黄祖(こうそ)の手により戦死しています。

 

その後を継いで、孫家を率いたのが孫賁(そんほん)でした。

根拠は、彼が孫堅の棺を引いて曲阿まで行った事で明らかです。

その後、故郷の富春に行かなかったのは、やはり孫堅の弟の孫静と

上手く行っていなかった事を暗示します。

 

匡亭の戦いで破れた袁術は、九江郡、寿春の陳瑀を頼りますが、

拒否されたので、孫賁を呼び出し、兵を集めて陳瑀(ちんう)を撃破します。

 

寿春を根拠地とすると、袁術は孫賁を豫州刺史に任命し、

その後は山越討伐を命じて、丹陽(たんよう)都尉、征虜(せいりょ)将軍にしています。

もちろん、漢王朝とは関係ない袁術の私的な任命ですが、

征虜将軍は孫堅の破虜将軍よりもずっと上で魏では三品官でした。

 

※魏の役職だと孫堅の破虜将軍は五品官になります。

 

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孫香、呉景など長く仕えた孫家の人には報いている袁術

朝まで三国志 袁術

 

袁術が孫賁、呉景(ごけい)、孫策を繰り出して、宿敵劉繇(りゅうよう)

撃破して揚州の支配を安定させ、西暦の197年の正月に帝位を僭称すると、

孫賁を九江大守、呉景を広陵太守、孫香(そんこう:孫策の従兄)を

汝南(じょなん)大守に任命しています。

ちなみに、呉景というのは、孫堅の妻の呉氏の弟です。

 

結局、この中で、呉景と孫賁は、孫策の要請に応じて、袁術を見限り

江南に逃げてしまっていますが、残った孫香は征南将軍になり

寿春で戦死しています。

 

こうして見ると、袁術は、別段ケチではなく、異姓の孫家を

ちゃんと評価して然るべきポストにつけています。

では、どうして、孫策の場合だけ、不当な扱いに見えるのでしょう?

 

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孫策は、九江大守、廬江大守の約束を反故にされたのか?

孫策

 

孫策は、いきなり袁術に従ったわけではなく、父、孫堅が死去してから

舒(じょ)を離れ、一時的に江都に住み、その後、母方の親族である

呉景を頼り挙兵、一揆軍の首領の祖郎(そろう)と戦い破れますが、

呉景のアドバイスを入れてやがて力をつけて祖郎を撃破します。

 

西暦193年、或いは194年、孫策は恐らく、

同族の孫賁のツテを頼り袁術配下の武将になっています。

 

この時、孫策は、18歳か19歳ですが、194年に九江を攻め落とし、

さらに廬江大守の陸康(りくこう)を降しています。

 

三国志の呉書、孫策伝では、袁術は当初、九江を落したら、

孫策を九江大守にすると約束しながら約束を反故にして陳紀(ちんき)を登用

その後、孫策に廬江を攻めさせる時に、

 

「九江大守に陳紀を使ったのは、ワシの過ちだった。

廬江を落したなら、今度こそお主を廬江大守にしよう」

 

と約束して孫策が頑張って、陸康を降すと袁術は今度も約束を反故して

劉勲(りゅうくん)を太守にしてしまい、孫策は失望して、

劉繇(りゅうよう)討伐を志願し、密かに独立を決意するという筋になっています。

 

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自軍に入って1~2年の孫策をいきなり太守にするだろうか?

孫策

 

しかし、冷静に考えてみましょう、いかに乱世の実力主義とはいえ、

弱冠19歳、自軍に入って1~2年のキャリアしかない孫策を

袁術ともあろうものが、いきなり太守にするでしょうか?

 

孫策が袁術軍に入隊した頃、彼は、袁術が軟禁していた

後漢の臣、馬日磾(ばじゅつてい)に懐義校尉(かいぎ・こうい)に任命されています。

懐義校尉は臨時の武官職で、結構下の階級ですが、

でも、19歳の青年に与える職としては妥当でしょう。

 

仮に、袁術が、口から出まかせのホラで、

二度の不義理をしたと仮定してみても、

孫策より先に入った孫賁は、孫堅挙兵からの古参で

征虜将軍ですがまだ太守になっていません。

 

魏制で三品官、征虜将軍の肩書(私設とは言え)を持つ孫賁が、

一族の年下で懐義校尉という下位の武官の孫策が、九江大守、

ないし廬江大守になったら納得するでしょうか?

 

そんな孫家同士の反目を招くような破格の出世を袁術が、

許すとはどうしても考えにくいのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

陳寿(ちんじゅ)が嘘を書いたとは思いたくありませんが、

ここには、孫策をAge↑、袁術を不義理なろくでなしとして

SAGE↓て、後に袁術から独立する孫策を正当化する意識が、

働いているような気がしてなりません。

 

自軍に入った孫家の若手を、いきなり太守のポストに就けるのは

身内の袁家ならともかく、かなり無謀では?思えるのです。

袁術は、孫策以外の家臣のポストは、まあまあ、考えて、

年功と功積を加味して配置しているので、なおさら、

孫策にだけ不自然に高い地位を与えるのが不可解です。

 

袁術はケチだったのか?皆さんはどう思われますか?

 

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袁術くんの成長日記

 

 

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