キングダムで一気に春秋戦国時代が人気になりました。信率いる飛信隊や王賁、蒙恬、桓騎、王翦などの将軍が活躍しており、この物語の終着点は秦王となった政が天下統一を成功させた事で終幕を迎えると私は考えております。
しかしどうして秦は天下を統一することができたのでしょうか。この疑問に三国志ライター黒田廉が秦国の法律面から勝手に考察してみました。
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この記事の目次
秦が統一できた下地は秦王政が生まれる百数十年前に生まれていた!?
秦が天下統一できたのは秦王となった政が六国に先駆けて法整備や優秀な人材を取り入れて兵を率いさせたことも秦が天下統一できた原因の一つではあります。しかし天下統一の大偉業をなし得た最大の原因は、彼が生まれる百数十年も前に出現したある法律家と当時の秦王が秦の天下統一の下地を作っていたのをご存知でしたでしょうか。
秦が統一できた理由その一:法律家・商鞅を手に入れたこと
秦王政が生まれる百数十年前に魏の国に一人の食客がおりました。彼の名前は商鞅(しょうおう)という名前でした。衛(えい)の国の公子として生まれますが、国が弱小であったため仕えるべき国を探すために、とりあえず魏の国の宰相である公孫座(こうそんざ)という人物の食客になっておりました。公孫座は魏の恵王(けいおう)から「お前もそろそろ老齢であるから、次の宰相を誰にするか決めたいと思うのだが、誰にすればいい?」と尋ねられます。すると彼は「私の食客に商鞅と呼ばれる優れた人物がおります。
この者に宰相の位を授ければ魏の国は安泰で有りましょう」と進言します。しかし恵王は彼の進言を採用することはありませんでした。公孫座は屋敷に帰るとすぐに商鞅を呼び「君を宰相へ命じるように恵王へ要請したが、受け入れてもらえなかった。そして君を宰相へ任命しないのであればすぐに殺害したほうが、いいとも要請しておいた。すぐに君はここから逃げた方がいい」と述べます。
すると商鞅は「王はあなた様の進言を採用しなかったのですから、私を殺害しろと言う進言も採用することはないでしょう」と言い切り、急いでにげることはせずに、翌日公孫座に今までの礼をした後、ゆっくりと魏の都をあとにしていきました。その後商鞅は秦へ入国して、宦官の伝手を得て秦の孝公(こうこう)と面会します。この時彼は熱弁を奮って三つの道を孝公に説きます。
一つ目の道は帝へ到達する道です。しかし孝公はつまんなそうにしており、最終的には居眠りをしてしまいました。二つ目の道は王へなるための道を説きますが、この時も彼は爆睡して話をほとんど聞いておりませんでした。最後の一つである覇道を説くと孝公の目の色が輝き、彼の話を食い入るように聴き始めます。そして孝公は商鞅を仕えさせます。秦は彼を加入させたことにより、秦の天下統一への道が始まっていくことになります。
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法律の改変を開始・・・しようとしたが・・・
商鞅は秦へ仕えることになると早速秦の国力が伸び悩んでいる最大の原因である「秦の法律」を改変しようと試みます。その為にはまず王へ「秦の国力が伸び悩んでいるのは、法律が悪いからです。この法律を改変しないことには、覇道を邁進することはできないでしょう」と進言。しかし孝公は「いや。やらせてあげたいのはやまやまなのだが、貴族や重臣たちから反対されたら嫌だからさぁ~」と商鞅の進言をのらりくらりとかわそうとします。商鞅は「自信をもって法律の改変を行わななければ、成功することはできません。」と強い言葉で孝公を激励。すると孝公は「君の言うとおりである。やるからには自信を持ってやらねばならん。よし商鞅よ法律の改変を君にお願いする」と商鞅に秦の法律を改変するように要請します。
商鞅の法律改変事業その1:第一次変法【墾草の令】
商鞅(しょうおう)は秦の孝公(こうこう)が秦の法律を改変することに対して迷っていたため、激励叱咤を行います。その結果、孝公は吹っ切れて秦の法律改変を商鞅に託します。こうして商鞅は秦の法律を改変するべく色々と法律を考えてついに墾草の令(こんそうのれい)と言われる法律改変案を作成して実施。
墾草の令の内容とは?
商鞅が考えた墾草の令とはどのような法律なのでしょうか。この法律の内容は
1:戸籍を設け、5戸と10戸(家の数)に分けて相互で監視を行い、報告する義務を設けます。もしこの義務を怠ったら5戸もしくは10戸の世帯全てが罪になるので気をつけてください。また報告したものは褒美を与えます。
2:1つの家庭に二人以上の男性がいる場合、その男性が新しい家庭を造らないときは税を倍に増やします。
3:私事で戦いを行った者を罰し、戦場で功績を挙げたらしっかりと褒美を与えるので励んでください。
4:女子は家庭内で紡績仕事に勤しみ、男性は農業に励んでください。しっかりと励んで成績を残した人には褒美を与えて報います。などの法律を掲げていきます。商鞅はただ法律を掲げただけでは施行されない可能性があるため、民衆から信頼を得るために城門にどでかい木を突き立てます。そして民衆へ「もしこの木を北にある城門に動かすことができたら金を50枚与えよう」と布令を出します。民衆はこの布令を聞いたときに誰も手を出しませんでしたが、民衆の中で力持ちの男が木を北門へ動かして役所に行くと彼は50枚もの金を手に入れることができました。この事を知った民衆達は秦の政府を信用することになり、商鞅が打ち出した新しい法律に対してもしっかりと守って行くことになります。
新法を打ち出すが・・・・
商鞅は新法を打ち出しましたが、布令を出した当初は商鞅が思っているよりも効果が上がりませんでした。民衆からの信頼を勝ち得ることに成功はしましたが、重臣や貴族達は彼の新法を疑問に思っておりました。そんな中孝公の太子の後見役が商鞅が打ち出した新法を破ってしまいます。
太子の後見役を法に照らし合わせて処断すると・・・
彼は早速太子の後見役で法律を破った者を法律に照らし合わせて処断。太子は彼が殺害した後見役とは仲が良かったため、商鞅を大いに恨みます。しかし太子の後見役を殺害したことによって民衆は、しっかりと彼が打ち出した法律が機能しているのだということに気づき、この法律を遵守していくことになります。そして商鞅が新しい法律を秦国内に適用してから10年ほどが経過すると秦の国力は、農業面においても以前と見違える程増強し、紡績面や軍事面においても農業と同様に一気に国力を付けることに成功。こうして商鞅が行った新法は大成功に終わります。しかし彼はこれが第一次の変法であり、この法律改変が成功したことによって第二回目の変法を考えておりました。
国力増強によって魏の都市を奪う
秦は商鞅の活躍によって国力は一気に増加することになります。そして増加した国力と軍事面においてどれだけ成果を出すことが出来るのかを実験するため、ある国に攻撃を仕掛けます。その国は魏です。魏は当時斉に戦で敗れていたことから国力が減少しておりました。しかし以前の魏であれば秦の国が逆立ちしても勝てないような強国でありましたが、商鞅は孝公へ「秦の法が変わって戦力がどれだけ強くなったのかを見るため、魏へ攻撃を仕掛けてみましょう。」と進言。
孝公はこの進言を受け入れて魏へ攻撃を行うと、秦の軍勢は魏の城をいくつも落とすことに成功します。孝公は魏の城をいくつも落とすことに成功したことを大いに喜び、商鞅へ「これからもよろしく頼む」と述べた後、彼の官職を上げます。こうして商鞅は自らが考えた政策である秦の法改変が成功したことによって、秦国内で彼の地位は上昇。彼は秦国内の重臣としての地位を確立することになります。
秦が天下統一をすることができた理由その2:第二次秦の法改変
さて第一次秦の法改変である「墾草の令」によって秦の農業生産力・紡績・軍事力などが一気に伸びたことがきっかけで秦の国力は上昇。この法改変の結果、隣国である魏の国の領土を削り取ることに成功し、秦の国威が上がっていくことになります。しかし秦が天下統一への道が始まったのはまだ序盤でしかなく商鞅が第二次法の改変を行った事で秦は天下統一への道が近づいて行くことになります。さて秦の法律改変のプロである商鞅はどのように法を改変していったのでしょうか。
第二次秦の法改変その1:度量衡の統一
商鞅(しょうおう)が秦に仕えた当初、重さや長さ、量などが秦の国のあちこちで異なっておりました。これは戦国時代の他の6国においても同様でした。そこで商鞅は長さ・重さ・量の全てを統一する法を制定して施行。この結果行政において混乱することがなくなり、スムーズに政策を行うことができました。この時商鞅は軽量などを公平にするため作った器を「商鞅升(しょうおうます)」と言われ、現在に残っております。
第二次秦の法改変その2:県を秦国内に設置
商鞅は上記の制度を施行した後、中央に権力を集中させるために秦国内の集落をすべて県として区分け。そして県となった地域に中央政府から県を統治する長官と長官を補佐する者二名をおいて、統治します。こうすることで力を持った貴族に権力が集中させずに、国家のトップである君主を権力の絶対的な者として君臨させる制度を制定します。また秦は以前から中原の諸国から軽蔑される文化がありました。それは親子・兄弟が共にひとつ屋根の下で生活していたことです。当時の中国では兄弟は成人になったら、親元を離れて一家を形成するのが当たり前であると思われていたのですが、秦の国では中原文化が浸透していなかったこともあり、成人した子供たちも一緒に親と住んでおりました。しかし商鞅は兄弟は成人したら親と一緒に住んではいけないと法を制定。このことによって秦も中原諸国の仲間入りを果たす事になり、戦場に駆り出すことのできる兵数も大幅にアップすることになります。
第二次秦の法改変その3:首都移転
商鞅は度量衡の統一・秦の国内に県制を制定・親と兄弟が一緒に住むことの禁止など第二次法改変も色々なことに着手します。そして商鞅の法改変における最大の山場といっても過言ではないものがありました。それは首都移転です。秦の首都は孝公の時代の首都は雍(よう)と言われる土地にありました。商鞅は中原諸国へ攻撃を仕掛ける際に不便であるという理由から、首都遷都を実施。彼は三国志の時代における長安のすぐ近くにある咸陽(かんよう)と言われる場所に、首都を移転します。当時首都を移転するのは非常に大規模な移動となり、首都を移転する前に城下の整備・宮殿の造営・民衆の家づくりなど色々なことをしなければならなかったので、重臣達は大いに不満を募らせておりましたが、商鞅に反対するほどの家臣はいませんでした。こうして首都の移転を完了して、全ての法改変を実施。すると秦の国は第一次変法の国力増強に加えて、第二次変法によって以前の秦とは比べ物にならないくらいの国力増強を果たし、戦国7雄の中で最強に近い力を手に入れることに成功し、秦が天下統一へむけての第一次段階が完了することになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
秦は商鞅を向かい入れて彼の変法を取り入れたことによって国力は増加。ここから秦の天下統一が始まったと行っても過言ではないという歴史家がいるほど、彼が行った変法は画期的なものでした。皆さんも知っているとおり、商鞅は孝公の太子に恨まれてし復讐されることになります。彼は孝公の太子の復讐をかわすために、国外に逃亡を図りますが自らの法によって最後は処断されてしまうのです。こうして商鞅を失った秦は彼の死後も彼の法を採用し続けるのですが、商鞅が入ってきた当初のような画期的なものが生まれませんでした。しかし彼の死後秦の天下統一の第二段階へと導いた二人が出現。このふたりによって秦の天下統一はグッと近づくことになります。
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