司馬昭(しばしょう)の時代、魏の王朝の皇帝として君臨していた曹髦(そうぼう)。
彼は皇帝として君臨するために魏王朝の権力を欲しいままにしている司馬家を討伐するために
挙兵します。
この知らせを聞いた司馬昭は皇帝の軍を迎撃するように命令を出しますが、
彼の参謀役として活躍していた賈充(かじゅう)の軍勢によって曹髦は殺害されてしまいます。
司馬昭は曹髦が殺害されてしまったことに驚き、親友である陳泰(ちんたい)に相談しますが、
彼の気持ちにそうようなアドバイスをもらうことができませんでした。
しかし皇帝殺害事件は司馬家の勢力が没落する可能性があったため、
早急に解決する必要がありました。
この皇帝殺害事件を正当化するために荊州の都督で有り、
学者としても有名であった杜預(どよ)が活躍することになります。
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杜預(どよ)は名将でありながら学者であった
杜預は孫呉を滅ぼすために荊州都督として駐屯していた羊祜(ようこ)の後釜として赴任。
彼は孫呉討伐のために必要な物は水軍力であると考え、
益州で大きな船をいくつも建造させることにします。
益州で大きな船を大量生産したことで、水軍力は強化されることなるのですが、
大きな船を作った際に木屑が大量に長江へ流れていくことになります。
そのため孫呉の領地の中にも益州で作った木屑が大量に流れ込んでいくことになり、
呉でもこの木屑の量は晋が呉に攻撃を行う前触れではないかと考えた人達は
皇帝・孫皓(そんこう)に進言しますが、取り上げてもらうことはありませんでした。
こうして晉は大軍を輸送することが可能で、
攻撃力にも特化した軍事船団を率いて呉へ攻撃を仕掛けることになります。
この結果杜預率いる晋の大軍は呉軍を各地で打ち破ることに成功し、
水上でも呉軍散々に打ち破ることに成功。
そして呉軍を降伏させることに成功したことで、晋の天下統一が完成することになります。
さてこの呉軍討伐戦で大活躍した杜預ですが、
実は学者としても名声を得ており春秋左氏伝に注訳を付けるほどの「春秋左氏伝」マニアでした。
司馬家の皇帝殺害を正当化しなければ・・・・
司馬家は晋王朝が完成する前に魏の皇帝を殺しており、
武帝・司馬炎の父司馬昭が曹髦を殺害していました。
司馬家としてはこの事件を正当化しないと新しくできたばかりの晋国を安定に導くことができないと
考えておりました。
そのため学者である杜預は司馬家が打ち立てた晋の国家を安定的な国にするために、
皇帝殺害を正当化するための文言を春秋左氏伝に注をつけながら探しておりました。
皇帝殺害を正当化するための故事
杜預は皇帝殺害の理由として春秋左氏伝から故事を引用した
「書殺例(しょさつれい)」と言うものを作ることします。
この書殺例によると「君主(皇帝・王)などがどうしようもないほどにポンコツである時には、
君主を殺害してもいい」と言うことを述べております。
上記の記載は杜預が自ら考え書いたのではなく、
周公も同じように行っていることを根拠として書殺例を完成させます。
三国志ライター黒田レンのひとりごと
こうして杜預が注訳を記載して完成させた春秋左氏伝によって、
司馬家が行ってしまった皇帝殺害を正当化させることに成功します。
この結果、司馬家が打ち立てた晋の国では皇帝殺害の黒歴史を葬り去ることに成功し、
安定的な国づくりへ励んでいくことになるはずでした。
晋は武帝・司馬炎が亡くなるとポンコツ司馬衷(しばちゅう)が跡を継ぎますが、
皇后であった賈南風(かなんぷう)が晋王朝を操ってやりたい放題したことがきっかけで、
晋は大いに乱れることになり反乱が勃発。
さらに異民族の軍勢が長城を超えて中華内部に侵入したことによって、
晋は滅亡してしまうことになってしまいます。
杜預が作った書殺例は晋の後の世界で生きることになっていくのです。
参考文献 朝倉書店 十八史略で読む 三国志 渡邉義浩著など
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