※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。
誰だって、叱られるよりは褒められた方が嬉しいですよね?
それが見え透いたお世辞でも、言われた方は頬が緩んだりするもんです。
ところが世の中には、決して他人を褒めまい、褒めたら負けというような
厳しい人も何故か存在しています。
一方で、三国志の英雄、曹操(そうそう)は褒めの効用を充分に認識し
有能な部下を褒めて褒めまくり天下統一に邁進したのです。
資源がない曹操は、元手が要らない褒め言葉に目をつけた
曹操は沛国譙県の生まれで、祖父は大宦官曹騰(そうとう)と言い、
父は曹騰の養子に入った大金持ち曹嵩(そうすう)でした。
こうして、曹操は金持ちのドラ息子として少年時代を何不自由なく過ごしますが
去勢して男性機能を喪失させてまで富貴を求める宦官という地位は、
世の人々の差別の対象になりました。
曹騰という人は、真面目、まともな部類の宦官で有能な人材を推挙するなど
功積もあるのですが、やはり宦官というだけで評判は悪く、孫の曹操は
中央の若手官僚でしたが「宦官の孫」と陰口を叩かれていました。
世が乱世に入っても知名度と外聞を気にする名士層は袁紹(えんしょう)や、
袁術(えんじゅつ)のようなエリートの下に流れていき曹操を敬遠しました。
資源が無い曹操は、人材を惹きつける為ヨイショの技術を磨いていくのです。
曹操の褒め1 素晴らしい努力を褒める
人間、人知れず遠まわしに努力を褒められると嬉しいものです。
曹操もその方法を利用して人材を集めようとしていた節があります。
袁遺(えんい)は、四世代に渡り司徒、司空、大尉という総理大臣クラスを
続々と輩出したエリート袁家の出身であり、曹操とは、反董卓連合軍で
酸棗(さんそう)に駐屯し共に戦っていました。
さて、曹操の息子の曹丕(そうひ)が残した典論(てんろん)が納められた
文選という資料によると、曹操には袁遺を褒めた記録が残っています。
それによると・・
「人間、大人になると学ぶ事を忘れるけど、私と袁伯業君は、
その大人の例外と言える存在だよね」等と曹操は言ったそうです。
結局、袁遺は、曹操の配下になる事もなく、反董卓連合軍でも、
大した活躍も無く従兄弟の袁術と揚州の支配を巡り争って破れ、
最期は部下に裏切られて死んでいます。
やや、曹操の見込み違いな感じもしますが、名門袁家に繋がる
人脈を曹操は袁遺を仲介して取りこみたかったのかも知れません。
参考文献:風俗文選著者: 伊藤 松宇 出版社: 岩波書店
曹操の褒め2 過去の英傑に例えて褒める
曹操は、自身で孫子の兵法に注釈を加えて不要な部分を削って編集しています。
実は、現在伝わる孫子十三編は魏武注孫子(ぎぶ・ちゅう・そんし)と言い、
曹操が手直ししたものなのです。
彼は読書家であり戦乱の合間に沢山の書を読んで政治に活かしました。
参考文献:孫子 著者: 村山 孚 出版社: PHP研究所
その中で曹操は過去の歴史にやたら詳しくなり、自分の部下を古の名将、
名軍師に例えて呼ぶようになります。
例えば、曹操を補佐した名軍師、荀彧(じゅんいく)を配下に加えた時には、
「おお我が子房が来たぞ!」と褒めちぎっています。
原文はこちらです→太祖大悅 曰吾之子房也
因みに子房というのは、漢の高祖、劉邦(りゅうほう)に仕えた軍師で、
天下獲りに大きく貢献した張良子房(ちょうりょう・しぼう)の事を意味しています。
荀彧は清廉潔白な人であり、野心の欠片も無い儒家然とした人でしたから
同じく、清廉潔白であった張良に例えられて悪い気はしなかったでしょう。
【シミルボン】元祖、褒めて伸ばす!曹操のヨイショ作戦が止まらない
の続きは、「シミルボン」内のページで読めます。
続きが気になる方は、「シミルボン」にアクセスしよう!