三国志最大の領土を築いた魏の曹操(そうそう)。
いくつもの戦いを誰とも同盟することなく戦い続けた彼ですが、
若かりし頃の曹操は辛くて苦しい場面がいくつもありました。
董卓連合軍に参加した頃は金なし、兵糧なし、兵力なしの状態でしたが、
なんとか苦心して兵力をかき集めて董卓討伐戦に参加しております。
今回は董卓討伐連合軍で奮闘していた曹操の姿をご紹介したいと思います。
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この記事の目次
反董卓連合軍に参加するため
曹操は董卓の追っ手を交わしてなんとか洛陽から脱出することに成功し、
兗州(えんしゅう)に到着すると家に蓄えられていた金を使って、
董卓討伐をするために兵を募兵することにします。
この時に曹操に資金援助してくれた心優しい人物がおりました。
その名を衛茲(えいじ)と言い、
彼の協力のおかげでなんとか5千人ほどの兵力を得ることに成功します。
こうして曹操は群雄として名乗りを上げることになります。
反董卓連合軍に参加するが・・・・
曹操は5千の兵を率いて反董卓連合軍に参加。
名門出身の袁紹がこの反董卓連合軍の盟主の座に就任しますが、
彼ら連合軍は董卓軍へ攻撃を仕掛けることをせずに、
毎日幕舎で宴会ばかり開いている有様でした。
曹操は彼ら諸将が何にもしないで酒ばかり飲んでいる有様に怒りを感じ、
諸将の間に激を飛ばします。
彼が制作した檄文の内容をざっくりと説明すると
「諸将は董卓を討伐するためにここに集まったはずなのに、
毎日酒ばかり飲んでいるではないか。
董卓軍は今洛陽を捨てて長安へ退却している。
今追撃をかければ董卓を討伐することは容易いであろう」と
諸将へ董卓軍の追撃を行うように命令を出します。
しかしこの激文に応えて参加したのは、
曹操の親友である張邈(ちょうばく)と鮑信(ほうしん)だけでした。
三人で董卓軍へ攻撃を仕掛けるが・・・・フルボッコされる
曹操・張邈・鮑信の三人は董卓軍を追撃するべく出撃しますが、
董卓軍の殿を務めていた徐栄(じょえい)軍にボコボコにされてしまいます。
曹操もこの時に怪我を負ってしまいますが、曹操の従弟である曹洪(そうこう)の助けによって
なんとか退却することに成功。
曹操はこの戦いでフルボッコにされてしまいますが、
果敢な将軍としての名声を得ることに成功します。
董卓軍へ攻撃を行うために再び募兵をするが・・・・
曹操は徐栄軍にフルボッコにされてしまったために兵力を大きく減らしてしまいます。
そのため彼は揚州(ようしゅう)へ夏侯惇(かこうとん)と一緒に兵力を獲得するために、
向かいます。
この地で4千ほどの兵力を手にすることに成功するのですが、
兵士達が反乱を起こしてしまいます。
曹操は反乱を起こした兵士達を倒すために自ら剣を奮って戦いなんとか反乱を鎮圧。
だがこの反乱で4千いた兵力はたったの5百人に減ってしまいます。
しかし曹操はめげずに揚州からの帰り道で募兵を繰り返し、
1千人ほどの兵力を獲得することに成功しますが、董卓連合軍は解散の兆しを見せておりました。
三国志ライター黒田レンのひとりごと
曹操の若かりし頃は後年の魏を建国した時のような余裕など一切なく、
東奔西走しておりました。
反董卓連合軍に参加した時から群雄として立った独り立ちすることになった曹操。
彼は兵力も少なく、拠って立つ土地すらない状態でした。
しかしこの反董卓連合軍に参加した時に誰ひとりとして動かない諸将の中で、
果敢に攻撃を仕掛けたことがきっかけで、彼に運が向いてくることになります。
上記を計算して曹操が董卓軍に劣勢でありながら攻撃を仕掛けたのであれば、
名声の利用価値を知っておりとんでもない人物であったことが伺えます。
参考文献 講談社 乱世の英雄 尾崎秀樹著など
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