前漢初代皇帝である高祖・劉邦には多くの家臣がおりました。
彼の配下には智謀の士と言われる陳平や張良、
兵を指揮させたら誰にも負けない自信家・韓信など多士済々でした。
そんな劉邦の家臣の中で誰に対しても言葉を選ばず直球で語る人物がおりました。
彼の名を周昌(しゅうしょう)といいます。
彼は一体どんな人物であったのでしょうか。
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劉邦の古参の臣として活躍
周昌は兄・周苛(しゅうか)とともに沛(はい)で育ちます。
始皇帝が亡くなると天下が乱れ、劉邦が沛を基盤にして独立します。
この時兄とともに彼も劉邦軍に加わり、一緒に闘っていきます。
その後兄・周苛は御史大夫(ぎょしだいふ)に任命されますが、
滎陽城攻防戦の時に劉邦の身代わりになって項羽に殺害されてしまいます。
周昌は兄の跡を継いで御史大夫の位に任命されることになります。
劉邦に「夏の桀王、殷の紂王のようだ」と手厳しい批判を述べる
彼は沛の頃から誰に対しても物怖じせずに言いたいことをはっきりと言っていた人物で、
沛出身の簫何(しょうか)や曹参(そうさん)、夏侯嬰(かこうえい)から一目置かれておりました。
そんな彼は劉邦が天下統一を成し遂げたある日、劉邦に用事があって彼の元に参内します。
劉邦は周昌が来たときにちょうどリラックスしており、側室の姫を傍においている時でした。
間が悪い時に来たと感じた周昌は急いでその場を後にします。
劉邦は周昌を追いかけて「お前。今の俺をどう思う」と尋ねます。
すると彼は「今の陛下は夏王朝の桀王(けつおう)、
殷の紂王のような振る舞いをされております。」と手厳しい批判を行います。
普通ならこのような暴虐な君主に見えると言われたら誰でも激怒し、
処断されてしまいます。
しかし配下からも一目置かれている存在で、劉邦自身も彼を信頼していることから、
この言葉を聞いても激怒することなく一言「そうか」と相槌を打つのみでした。
廃嫡問題発生
劉邦は天下統一後は、
正妻である呂雉よりも若くて美しい戚姫(せきき)と言われる女性を気に入っておりました。
彼は常に彼女を傍らにおいてついに彼女は劉邦の子を身ごもります。
その後戚姫は無事に男の子を出産。
劉邦はこの戚姫が生んだ子供を自らの後継にしたいと考えて、
家臣達に「現在の太子を廃して、戚姫の生んだ男の子を太子にしたいと考えているが、
皆はどう思う」と尋ねます。
すると漢帝国樹立に貢献した功臣達は一斉に反対。
しかし劉邦はこの反対を全く気にすることなく太子を廃して、戚姫の生んだ子供を太子にしようと
準備を行っていきます。
呂雉は自分の息子がこのままでは皇帝になれないかも知れないと考え、
智謀の士として天下にその名を轟かせた張良に助言を仰ぎます。
すると張良は呂雉へ「劉邦が招こうとした学者たちを嫡男である太子に招かせて、
学問の師として厚遇すれば太子廃立を防ぐことが出来るでしょう」と呂雉に助言。
この助言を聞いた呂雉は張良の助言通りに行動して、太子廃立は防がれることになります。
周昌のストレートな言葉
周昌は太子廃立問題が発生すると劉邦へ「私は無学で、あんまり言葉を知りません。
しかし無学な私でも一つだけ分かることがあります。
それは一度決めた太子を廃立することが良くないことです。
これは絶・・・・対良くないので、行わないでください。
もし太子・・・・廃立が行われたとしてもわた・・・・しは従いません」と吃りながらも激怒。
この言葉を聞いた劉邦は周昌の言葉を聞いて笑い出してしまいます。
だが周昌の怒りの抗議も決め手となって太子廃立は行われることはありませんでした。
前漢時代ライター黒田レンの独り言
呂雉は会議の席で周昌の言葉を伝え聞きます。
その後呂雉は周昌の元へ行き、「あなたのおかげで、
嫡男は太子を廃立されることはありませんでした。ありがとうございます。」
と周昌の向かって頭を下げて感謝の意を伝えたそうです。
「今回の前漢時代のお話はこれでおしまいにゃ
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう
それじゃあまたにゃ~」