姜維は北伐の失敗で衛将軍に降格したのに何で大将軍に復帰出来たの?【後半】

2017年3月2日


 

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諸葛亮孔明の遺志を継いで、盛んに北伐を仕掛けた蜀の姜維(きょうい)

その遠征の回数は諸葛亮孔明よりも多かったといわれています。

兵糧や装備など準備もままならぬ状態で毎年のように北伐に出兵し、国力を消耗させていった姜維

 

 

国内でも姜維に対しての怨嗟の声があがってきます。

そんななかで西暦257年、姜維は後将軍に降格した状態でまたも北伐に動きます。

その執念たるや凄まじいものです。

今回もそんな北伐の鬼・姜維にスポットライトを当てていきたいと思います。

 

前回記事:姜維は北伐の失敗で衛将軍に降格したのに何で大将軍に復帰出来たの?【前半】

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏の内乱

 

西暦257年、魏では諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こしました。司馬氏の専横への対抗でした。

この機に乗じて領土拡大を図り、蜀からも魏の鵅谷、沈嶺に向けて姜維が出撃しました。

魏は鄧艾を援軍に差し向けます。

長期に渡り対陣しましたが、諸葛誕が破れたという報を聞いて姜維は撤退します。

朝廷内で姜維の北伐に賛同しているものはわずかでしたが、

そのひとりに君主・劉禅に可愛がられていた陳祇がいます。

彼は費禕亡きあとの政治のリーダーでした。

 

 

西暦258年に姜維は大将軍に復帰します。

おそらくはこの陳祇の意向を劉禅が酌んだのではないかと推測されます。

陳祇は同年に没していますが、

「姜維に軍権を一任し、蜀漢の志を遂げること」これが彼の最期の願いだったのかもしれません。

仮に大国・魏を相手に北伐を成し遂げら得る人物は蜀漢全土を見渡しても他にいませんでした。

 

名将・鄧艾の存在

 

姜維が大将軍に復帰できた理由として、もうひとつあげられるのが、鄧艾(とうがい)の存在です。

鄧艾は姜維の北伐を防ぐなかでメキメキと頭角を現し、鎮西将軍にまで出世していました。

西暦262年に姜維はまたも北伐に動き洮陽を攻めましたが、途中、鄧艾によって迎撃されています。

 

 

ここに至り、反姜維派が一致団結して「姜維降ろし」を試みます。

劉禅の側近の黄皓や諸葛瞻や董厥などが、

姜維の代わりに右大将軍の閻宇に軍権を移そうとしましたが、企画倒れに終わっています。

経験豊富で無敵の強さを誇る鄧艾に対し、

地理にも疎い閻宇では相手にならないことは誰の目にも明らかだったからでしょう。

蜀には他にもベテランの張翼や廖化などがいましたが、

鄧艾を上回る軍略の持ち主ではありませんでした。

他に代わる人がいない。

これが姜維大将軍復帰の一番の理由なのではないでしょうか。

 

中央からつまはじきにあう大将軍

 

大将軍とはいえ、都である成都には政敵も多く、

特に宦官の黄皓と姜維は犬猿の仲で、姜維は上奏して黄皓処刑を願い出たほどです。

内政に于頓着だった姜維は、政敵の黄皓の派閥の成長を止められず、

やがて朝廷に出向くことすらできなくなってしまいました。

こうなると大将軍など名前だけで、辺境の地でひたすら戦い続けるだけの存在です。

中央と姜維の温度差は開く一方です。

孤独な戦いを姜維は強いられることとなります。

そんな大将軍になりたいと思う人は誰もいなくなったのではないでしょうか。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

西暦263年、そんな蜀の内情を知ってか、魏の相国・司馬昭は本格的に蜀征伐の軍を出撃させます。

その大将のひとりが姜維のライバル・鄧艾です。

鄧艾は巧みに姜維との戦いを避けて山越えし、成都を落として蜀を滅亡させました。

確かに蜀には鄧艾の猛攻を防げる武将はいなくなっていたのです。

結論として蜀は大将軍の器となり得る人材を育てられなかったということではないでしょうか。

姜維もそれが痛いほどわかっていて大将軍に復帰したのだと思います。

 

 

劉禅が魏に降伏する際、大将軍の姜維には相談もありませんでした。

姜維は劉禅が降伏したことを知って、驚き悲しみながら剣閣を鍾会に明け渡したのです。

蜀において大将軍の地位などさ信頼されるほどの重責ではなくなっていたのかもしれませんね。

 

みなさんはどうお考えでしょうか。

 

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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