劉備と孔明の間柄は水魚の交わりと言える程の親密な間柄であったとされております。
しかし彼らの間は果たして本当に水魚の交わりのような間柄であったのでしょうか。
孔明は劉備に仕えたときはまだ青年と言っていいほどの年齢でしたが、
長く荊州にいて荊州の名士と呼ばれる司馬徽(しばき)や
龐統(ほうとう)の一族で龐徳公(ほうとうくこう)らの名士らと面識があり、
非常に優秀な人物でした。
蜀の丞相となった時に彼の優秀さが際立つことになりますが、
これほど優秀な人物を劉備は警戒することなく無条件で受け入れることができたのでしょうか。
ヘタをすれば孔明に蜀を乗っ取られる可能性もあったはずです。
そんな彼を果たして劉備は義兄弟であった関羽や張飛達と同じように信頼していたのでしょうか。
今回は劉備の遺言にスポットを当てて孔明をどの程度信頼していたのか
探ってみたいと思います。
劉備の孔明信頼度はどのくらいなのか
劉備は孔明や趙雲(ちょううん)らの反対を押し切って、孫呉を討伐するべく出陣。
当初は快進撃を続けて呉軍に連戦連勝していた蜀軍ですが、
夷陵(いりょう)で陸遜の反撃に遭って大敗北して撤退することになります。
劉備はその後白帝城(はくていじょう)へ逃げ帰りますが、
この地で病にかかってしまいそのまま亡くなってしまいます。
彼は死ぬ間際太子であった息子の劉禅(りゅうぜん)と丞相であった孔明を呼んで遺言を彼らに
託します。
劉禅には「勉学に励んで、孔明を父として敬い仕えよ。」と述べております。
孔明には「君は魏の曹丕よりも才能に溢れており、
もし劉禅が国主としてふさわしくないと思ったなら君が国を乗っ取ってしまえ。
だが劉禅が補佐するに足る人物であるならば、彼を補佐してくれないか」と遺言を託します。
これは三国志を少し知っている方なら誰でも知っているエピソードで、
劉備が孔明を100%信頼していなければ、まず言うことができない言葉ではないのでしょうか。
この点では劉備は100%孔明を信頼していると言ってもいいでしょう。
実は孔明を100%信頼してなかった劉備
劉備はこの遺言を残した後に亡くなってしまうのですが、
果たして全幅の信頼を寄せていたのでしょうか。
疑うことをしないで劉備の遺言を受けて取れば間違えなく、
孔明を信頼していたからこそあのような遺言を託すことができたと考えられます。
しかし孔明に絶対の信頼を置いてないからこそ
あのような遺言を託すことができたとは考えられないでしょうか。
劉備が打ち立てた蜀は色々な人材達が混ざっている国家で、
新しく吸収した益州の人材達も数多く劉備が打ち立てた国家に参加しております。
そしてまだ益州を奪ってから日が浅い劉備の軍閥は、
益州の人材達を劉備陣営になじませる必要があり、
遺言を託す場に益州の人臣の代表として李厳(りげん)を呼んでいました。
彼や劉禅がいる場で、劉備は孔明に対してあの遺言を言ったと思われます。
理由としてあの遺言を言った劉備の死後に孔明が破棄しても誰も何も文句を付けることが
できないから、証人として彼らがその場にいた可能性が非常に高いと考えられます。
これらを考えて劉備の遺言を託すと孔明に「蜀の国を乗っ取ることは許さない」と
意思表示を孔明に対して示していることにならないでしょうか。
三国志ライター黒田レンのひとりごと
劉備は孔明の優秀さがとても頼りになる反面、彼の優秀さが非常に不安になってしまったことが、
あの孔明に対して述べた遺言に現れているのではないかとレンは考えます。
魏でも明帝・曹叡(そうえい)が亡くなる間際、
一族の曹爽(そうそう)や大将軍であった司馬懿、
次期皇帝である曹芳(そうほう)を呼んで
「協力して彼を支えてくれ」と頼み、幼い皇帝であった曹芳に司馬懿に抱きつくように命令しており、
曹叡も司馬懿が優秀すぎて頼りになる反面、彼が優秀すぎて魏にとって危険な存在として
なるのではないかという不安があったために、司馬懿に魏を乗っ取られないようにするために
曹爽がいる場所で、曹芳に上記のような行動を命令したのではないのでしょうか。
(しかし曹叡の場合は失敗してしまい、司馬懿に魏の実権を乗っ取られてしまいます。)
こうして考えると孔明だけではなく、優秀な人材は優秀すぎるがゆえに疑われてしまうのが
歴史においての必然になってしまうのでしょうか。
皆さんはどのように思いますか。
参考文献 朝倉書店 十八史略で読む三国志 渡邉義浩著など
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