日本に桃太郎、金太郎のような昔話のヒーローがいるように、中国では三国志の英傑が
昔話に登場し、道徳や正義や人として生きる道を指し示すのに一役買っています。
その中でも曹操(そうそう)は、様々な形で各地の民話に登場しているのです。
今回も、三国志中国伝説の中の英傑から、思わず納得する曹操の民話を紹介しましょう。
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この記事の目次
袁紹を弔う事を止めない冀州の人々・・
官渡の戦いの2年後、北方四州を制した英傑、袁紹(えんしょう)は敗戦の失意から
血を吐いて死去、翌年、曹操は冀州の州都、鄴(ぎょう)を陥落させて支配下に収めます。
しかし、袁氏の政治は平等で公平であり、冀州の人々はよく懐いていました。
そして、袁紹の死を悼み、麻服を着て、喪に服す者や、大声を挙げて泣く者、
町まで出てきて袁紹の葬送を行う人々が大勢出ました。
もちろん、新しく冀州の支配者になった曹操は、自らの威信にかけて、
袁紹を弔う事を許さないという布令を出していますが、冀州の人々は、
危険を承知で命令を無視していたのです。
民衆を処罰しようと曹操の配下は息巻く
このような冀州の民の行動は、曹操の支配への挑戦と映りました。
曹操軍の将軍達は息巻いて、人々を殺す事を進言し大臣達は、
布令を破った民に厳罰を科す事を曹操に提言します。
しかし、曹操は、それに対して首を横に振って答えました。
「諸君、民の感情に逆らう事は出来ん、順応するのみだ
我々も袁紹の恩徳をしのび、その葬送に参加しようではないか?」
民衆の感情に寄りそう事で彼等を服従させる事が出来る
曹操の発言に、将軍達も大臣達も反対しました。
ここで、布令違反を許せば、ますます民はつけあがり、我々を侮ります。
それでは、安定した統治など覚束ないでしょうと心配するのです。
ところが、曹操はその声を抑えて言いました。
「冀州の民は、我々に叛いているのではない、袁紹の恩義を忘れていないだけじゃ
袁紹の恩義を優先する結果、わしが出した布令を無視する事になっても、
敬愛する袁紹の為に処罰されるなら、構わないと言っているのだ。
これは、評価してよい立派な心掛けであり、処罰する必要はないだろう。
考えてみれば、わしも袁紹とは幼馴染み、血で血を洗う乱世においては、
お互いを思いやる暇も無かったから、殺し合いを演じてきたものだが、
あやつが死んだ今になってみると、良い思い出ばかりが甦ってくるものだ・・
わしには、冀州の民の気持ちが分る、だから、麻の服を着て葬列に加わろう
そうすれば、冀州の民も我等が鬼ではない事が分かり、心を開くだろう」
曹操以下、すべての部下が袁紹の葬列に加わると・・
曹操の部下達は、どうして我が軍を苦しめた憎い敵の為に哀悼の意を示すのかと
ブーブー不満を言いますが、命令なので、渋々、麻の着物を着て葬送に加わります。
果たして、冀州の民は、袁紹に哀悼の意を示す曹操の姿を見て感動し、
以後は、次第に曹操の統治に服従するようになったという事です。
怒りや悲しみというのは、理屈で抑える事は出来ないもので、
それを生意気だからと力で抑え込むと相手の心に不信を産みだします。
曹操は、そういう人間の心を知りつくしていたので、まず共感して
相手と同じ気持ちである事をアピールして、その心を掴んだのです。
三国志民話ライターkawausoの独り言
これは民話ではありますが、冀州が袁紹の根拠地として長く存在し
民衆が袁家に服していたというのは歴史的にも事実です。
曹操が鄴に都を置いたのも、いつ冀州が叛くか分らないという不安があったからで
結局、曹操の存命中は鄴が帝都のまま、曹丕(そうひ)の時代になって
初めて洛陽へ遷都しています。
このような事から考えると、曹操は冀州の統治に相応に気を使った可能性があり
それが、このような民話を産んだ背景にはあるのでしょう。
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