楚漢戦争中一度も負けずに勝利し続けた戦の天才韓信(かんしん)。
彼が歴史に名を残すことになった戦いとは趙を平定した井陘口(せいけいこう)の戦いと
言えるのではないのでしょうか。
この戦で彼は戦いでは禁じられている河を背にして陣を張る背水の陣を敷き、
兵士が強制的に必死さを出す状況へ追い込み勝利を手にします。
しかし彼の兵法は背水の陣だけではなくいくつかの戦法を同時に使用するしたことで
この戦いに勝利をもらたすことになるのです。
今回は背水の陣に隠れた戦法をご紹介したいと思います。
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背水の陣に隠れた戦法その1:彼を知り己を知れば100戦危うからず
彼を知り己を知れば100戦危うからず(かをしりおのれをしれば100せんあやうからず)。
これは孫子の兵法書・謀攻編に記載されている言葉です。
孫子は「味方の置かれた状況をしっかりと把握し敵陣の情報もしっかりと把握すれば、
戦に負けることはないよ」という意味です。
韓信は孫子の兵法書を読んでいたかどうかはわかりません。
しかしこの孫子の記載されている兵法に則って行動していたことは間違えありません。
韓信は趙の出入口である井陘口を通って趙へ侵入。
その際に彼は敵陣の情報を知るために間者を放ちます。
趙軍は韓信軍が侵入してくるとどのようにして迎え撃つべきか軍議を開きます。
この時の軍議の内容は韓信軍が放った間者達が情報を得て韓信へ軍議の内容を報告。
彼は趙軍がどのように行動するのかを知っていたので、
漢軍がどのように行動し、どのような作戦を立てて趙軍に勝利することができるのかもあらかじめ
考えることができました。
敵の出方を知っていればある程度の対処はでき、勝ち方も自ずと予想を付けることができます。
韓信は背水の陣だけではなくこのように敵陣の行動をあらかじめ知っていたからこそ、
兵法では無謀と言える背水の陣を敷くことができたのです。
背水の陣に隠れた戦法その2;敵陣を突いた大胆な戦法
韓信は趙軍が翌日総攻撃を仕掛けてくることを間者からの報告からで知り、
漢軍迎撃作戦の本拠地となっている砦に攻撃を仕掛ける作戦を立てます。
彼は夜中になると自分が率いている精鋭の騎馬隊2千騎ほどを選抜し、
騎馬隊の隊長へ「君は今すぐに騎馬隊を率いて間道へ移動してくれ。
あすの朝、我が軍と趙軍が決戦を行うはずだが、
趙軍が我が軍へ攻撃を仕掛け、ある程度戦ったら漢軍は退却する。
趙軍は大軍であるから砦に残っている兵を引き連れて全軍で攻撃を仕掛けくるだろう。
そこで君は我が軍が退却した時に間道を伝って砦に攻撃を仕掛けてくれ。
砦に守備兵はほとんどいないから制圧するのは簡単なはずだ。
そして砦を制圧した後に君は漢軍の赤い旗を何本か目立つ所に突き立てて欲しい。
これで我が軍の勝利は間違いないであろう」と述べます。
騎馬隊の隊長は韓信の命令を聞き、すぐに趙軍から見えない間道へ移動していきます。
そして一度漢軍の諸将を集めて適当な話をしてから解散します。
この時に諸将へ別働隊を編成して出発させたことは一切話しませんでした。
その理由は漢軍にも趙軍の間者が入っていると予想していたからでしょう。
もしこの軍議で別働隊派遣を諸将へ教えてしまえば、趙軍に作戦が筒抜けになってしまい、
作戦が失敗してしまうからです。
そのため彼は味方にも教えないで、この作戦を実行することにします。
三つの作戦で漢軍は大勝利を得る
韓信は翌日趙軍と決戦を行いますが、ある程度戦った後に本陣へ退却。
本陣は敵軍を油断させるために河を背にして陣を敷いているため、
趙軍は砦を守る守備軍もすべて出撃して全軍で漢軍へ攻撃を仕掛けます。
韓信軍が退却したことを知った別働隊の騎馬隊はすぐに間道を伝って、
趙軍の砦に攻撃を仕掛けて制圧し、趙軍からも見えるように目立つ所に旗をいくつも立たせます。
趙軍は韓信軍の本陣が中々陥落させることができない為、砦へ退却していきます。
しかし趙軍は砦に漢軍の旗がいくつ立っていたため、混乱状態になってしまいます。
そして趙軍は背後から韓信軍、前から漢軍の攻撃を受けると壊滅状態になってしまい、
総大将であった趙王は捕虜になってしまい、趙の宰相・陳余(ちんよ)は討ち取られてしまいます。
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戦国史ライター黒田レンの独り言
韓信は上記二つと背水の陣を敷いて敵陣を油断させたことで、
趙軍に大勝利を得ることができたのです。
もし背水の陣だけだったら、趙軍に勝つことはできなかったでしょう。
いくつもの兵法を複合させることで勝利へ導くことができた韓信が歴史に名を残すことができ、
現在でも多くの人が知っているのは当然と言えるのではないのでしょうか。
参考文献 史記 司馬遷著 訳和田武司・山谷弘之など
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